ベイエリアの眺望と下町風情が入り交じる「月島」の今昔 50年前はどんな景色に? (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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ベイエリアの眺望と下町風情が入り交じる「月島」の今昔 50年前はどんな景色に?

連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

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諸河久dot.#鉄道
月島停留所付近。空が広く、火の見櫓(やぐら)も写っている(撮影/諸河久:1965年11月11日)

月島停留所付近。空が広く、火の見櫓(やぐら)も写っている(撮影/諸河久:1965年11月11日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、豊洲新市場にほど近く、超高層マンション群がそそり立つ「月島」の都電だ。

【約50年が経過して「月島」はどれだけ変わった? 現在の写真はこちら】

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 東京下町の味、もんじゃ焼き。その発祥の地ともいわれ、いまではその味に海外からの観光客も集まるようになった月島。隅田川の東側に位置し、四方を運河で囲まれているこの地に路面電車が走ったのは1923年7月29日で、市電・月島線として門前仲町~月島通八丁目間2100mの運転を開始している。関東大震災が9月1日に起きているから、開通直後に罹災したといえるだろう。

 当時の月島は市電も渡る相生橋が唯一の連絡橋で、深川区(現・江東区)越中島と結んでいた。隅田川には月島に通じる橋が架かっておらず、鬨(かちどき)、月島、佃の三つの渡し船により築地や明石町と連絡していた。

 1940年に勝鬨橋が架橋され、月島と築地が陸路で結ばれた。戦後の1946年になって、月島線も月島通八丁目から勝鬨橋東詰間を延伸。翌1947年12月に勝鬨橋線が全通し、待望の11系統が築地から隅田川を渡河して月島まで運転されるようになった。言い換えれば、それまでは交通網に乏しい地域でもあった。
現在のほぼ同じ場所。周辺にはタワーマンションが林立している(撮影/諸河久:2018年10月24日)

現在のほぼ同じ場所。周辺にはタワーマンションが林立している(撮影/諸河久:2018年10月24日)


 戦前の月島線には柳島~森下町~月島通八丁目の27系統が走っていた。戦後は23系統に改番された。1958年には、都電最後の路線延伸区間のひとつとして柳島から福神橋まで598mが開通した。この23系統は福神橋を発して本所吾妻橋~森下町~門前仲町~月島通八丁目(1965年から月島に改称)に至る8742mの路線だった。

 ラッシュ時には臨時30系統が月島線に乗入れる。朝夕2~6台の都電が、寺島町二丁目(1965年から東向島三丁目に改称)を発車して月島に向う。いっぽう、勝鬨橋を渡ってきた臨時9系統や11系統も月島通八丁目~新佃島に乗り入れて、ラッシュアワーの月島線はたいそう賑った。

 写真は清澄通りに敷設された月島線・月島停留所を発車した臨時30系統東向島三丁目行き。左側奥の月島停留所には23系統福神橋行きが折り返しを待っている。その背後の月島通八丁目交差点(現・かちどき駅前交差点)を左右に横断しているのが晴海通りで、左に行けば晴海埠頭で、右に行けば勝鬨橋を渡り築地・銀座方面に至る。都電開通当初は交通信号の無いロータリー式交差点だったと、地元の古老から伺った。11系統は交差点を直角に右折し、築地を経由して新宿駅前方面に向かっている。


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