昭和の銀幕スター原節子は、日本人離れした美貌と高い演技力で、数々の巨匠作品に登場した。しかし、人気絶頂のなかで突然、表舞台から去り、95歳で生涯を閉じるまでその姿を見せることはなかった。『あの時代へ ホップ、ステップ、ジャンプ! 戦後昭和クロニクル』(朝日新聞出版)から一部抜粋し、謎めいた大女優の軌跡を素顔とともに紹介する。

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 8月15日の敗戦は、さまざまな“変化”を女性たちにもたらした。女優の原節子もその例外ではなかった。

 当時、原は25歳。女手で大家族を支えていたため、住まいのあった東京・笹塚から京王線に乗り、多摩川あたりまで野菜の買い出しに出かけた。沿線には大映(現・KADOKAWA)の撮影所があり、たまたま同じ電車に乗り合わせた女優たちは泥まみれの野菜を抱えた同僚の姿を見て「気の毒に」と気兼ねしたのだろう。原がいくら話しかけようとしても、女優たちは知らん顔をしていたという。

 東京郊外だけではなく、福島あたりまで出かけ、2斗(約36リットル)ほどの米を背負って帰ってくることもあった。

 おかしかったのは、きれいに身支度を整えて出かけたときには、列車の中で女優・原節子であることを悟られることがなかったのに、なりふりかまわずに出かけたときにかぎって、「原節子だ」と囲まれ、かえって往生したことだ。

 原の出演した戦後第1作は、昭和21年2月公開の「緑の故郷」だった。続けて、同じ渡辺邦男監督作品「麗人」に主演。この作品を批評した文章で使われた“永遠の処女”は、“女優・原節子”を形容する言葉として、スクリーンを遠ざかってから亡くなるまで、生涯を未婚で通した女優に対するオマージュの意味をこめて使われている。

 昭和21年10月になると、黒澤明監督の戦後第1作「わが青春に悔いなし」が公開された。黒澤監督には珍しい女性を主人公にしたこの作品で、原は戦中・戦後の混乱期に自らの意思に忠実に生き、自己を確立するという新しい時代の女性像を演じて演技派女優としての評価を得た。

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“大根女優”と陰口をたたかれるもイメージ好転