洋の東西を問わず、スーパーヒーローがフィクションの世界であれだけ求められるのは、現実にそういう「スカッとする」ものがないことの裏返しだ。また、正義は人の数ほどある。その正義を完璧に数値化して公平に判断するのは不可能だ。人生は不条理だと思ったほうがいい。
そもそも“条理”は人間が考えた勝手な幻想ともいえる。あなたの思う通りに世の中はできていないのだ。神や仏はいるかどうかわからないが、そういう絶対的な存在が常に条理にかなった鉄槌を下してくれるわけではなさそうだ。
世の不条理を受け入れ、まかり通らないのを百も承知で正義とともに殉じる覚悟なら、それはそれでいい。しかし、そこまでの覚悟がないなら、善悪を最上位において、正義感を世の中にむやみやたらに要求することは避けたほうがいい。正義感から他者と無駄な諍いをすることはもってのほかだ。なぜなら、相手が勝つ場合が結構あるからだ。
【自信にあふれる】
いろんな意味での自信である。自分が正しいという自信。相手を論破できるという自信。相手に権力闘争で勝つ自信。相手に成果で勝つ自信。根拠のない自信もあれば、実績に基づく根拠ある自信もあろう。
何事もカラ元気であっても自信を持って取り組むべきだと思うが、自信家が相手を論破しようとするときほど、相手から見て屈辱的なことはない。
私は金融庁担当の政務官や自民党の財金部会の副部会長や国会の財金委員会の理事をやっていた頃、金融界の人たちとの意見交換の場をたくさんもうけていた。金融界の実力者は学生時代からエリートコースをそのまま歩んできたような人が多い。
腹の底では政治家や官僚を馬鹿にしている人が多いのが、鈍い私でも感じられた。「官僚はまだしも政治家なんて経済も金融も何も知らないだろ」という感じで、意見交換でも自信満々に国会や与党の法案や政策を諭そうとする人が多かったのだ。
上から目線の自信家に論破調で来られたとき、こういう人は何を考えているのだろうかと思った。われわれに影響を与えたいのか?馬鹿にしてスカッとしたいのか?教育してやるから言うことを聞けという、自分の部下にするような気持ちなのだろうか。
一緒にいた先輩たちが言葉には出さないが「あいつらにちょっとお仕置きをしてやろうか」という感じの顔になっていたのをよく覚えている。自分のほうが頭がいい、知識がある、と思っている人間のやる行為は、明らかに逆効果な場合が多いのだ。頭がいいかもしれないが、愚かなのだ。
加えて、自信家はどんどん脇が甘くなっていく。自信を持って成功してきた経験が次への準備を怠らせる。自信があるから未来の想定も甘くなりがちだ。相手を不快にさせるだけでなく、相手の出方を含めた未来の想定をなめてしまい、自分の能力をさらに過信していく。こうして悪循環になっていく。
自信のあるときこそ、自信のある人こそ、謙虚にそして危機感を持って事に対応すべきなのは洋の東西、何事にでも言えることだ。
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