元巨人のデビット・パブラス(写真提供・読売ジャイアンツ)
元巨人のデビット・パブラス(写真提供・読売ジャイアンツ)

 これまで巨人に在籍した助っ人たちは、活躍した選手はもとより、2003年入団のクリス・レイサムのように活躍できなかった選手でも、アウトカウントを間違えてスタンドにボールを投げ入れた珍プレーにより、その名が記憶されるなど、他球団の助っ人に比べて断然注目度が高い。

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 だが、過去には、熱心なファンでもピンとこない“影の薄かった”助っ人も何人か存在する。

 影が薄いどころか、巨人に在籍していた事実すらも忘れられているのが、1979年に入団した内野手のデニス・バーフィールドだ。

 バーフィールドといえば、93年に在籍したジェシー・バーフィールドを「走者を追い越した助っ人」として思い出すファンも多いはずだが、それより14年前に、もう一人のバーフィールドが巨人にいた。

“初代”バーフィールドは、カリフォルニア大時代に2年連続ベストナインに選ばれながら、足を痛めたため、米大リーグのドラフトにかからず、卒業後、ロスのクラブチームでプレーを続けていた。遠い縁戚にあたる与那嶺要2軍外野守備・走塁コーチが紹介し、球団も日米の紳士協定に触れないことを確認したうえで日本に呼び、1978年11月24、25日の2日間、多摩川でテストを行った。

 正二塁手・土井正三が引退したばかりの巨人は、二塁、または三塁を守らせるつもりだったが、中越えに2本運んだ打撃はともかく、守備に難があった。そこで、1年間練習生として鍛えることになり、背番号も「37」に決まった。

 翌79年2月の宮崎キャンプで、紅白戦に出場したバーフィールドは右中間に三塁打を放ち、ベース1周14秒60の俊足も披露。「福本(豊)より速いよ。デニスは日本一の俊足だぞ」と長嶋茂雄監督もぞっこんだった。

 だが、“デニスのハンバーガー”の愛称でミスターに可愛がられた25歳の練習生も、外国人2人制に泣き、2軍戦にも出場できないまま、シーズン終了。本人は「試合にさえ出られれば、来季も巨人でプレーしたい」と希望したが、翌80年も出場できる見込みがないため、11月18日に寂しく退団帰国した。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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97年途中に入団したドイツ生まれの新守護神候補