「フェミサイド」という言葉を、日本の多くの人が知った事件のきっかけの一つが2016年5月におきた韓国ソウルの「江南事件」だ。カラオケ店のトイレで女性が殺された。それまで入ってきた男性たちは無事であったことから、フェミサイド事件として多くの女性たちが声をあげたのだ。なかでも大きく報道されたのは、事件がおきたトイレ近くにある江南駅10番出口の壁、屋根全面を覆うほどのポスト・イットが貼られたことだ。「被害者はもしかしたら私だった」というその声は、アジアを牽引する韓国フェミニズムの歴史的一歩となったとされている。

 もちろん、日本と同様に性差別の激しい韓国でも、当然「これはフェミサイドではない」「これは社会的弱者の男性問題だ」というような声はすぐにあがった。今回の日本と全く同じであった。ネットで江南事件を語るフェミニストたちは激しい攻撃にさらされ、事件直後には顔を出して抗議をしていた女性たちの多くが、マスクやサングラスをして抗議しなければいけない状況に陥ってしまうほどだった。

 フェミサイドをフェミサイドだと女性たちが声をあげるだけで不安がかき立てられ、怒りを覚え、女性たちの声をなだめよう、脅して黙らせようというような声は、日本も韓国も同じだ。長く厳しい家父長制社会で、女性たちが“自分たちより価値のある男”から暴力を振るわれるのは、「仕方ない」という空気がつくられてきた。女性が夜道を歩いていたらレイプされたり殺されたりすることもあるだろう。お酒を飲んで男の家に行ったらレイプされたり殺されたりする覚悟もあってのことだろう。夫の食事を満足につくらない妻に罵声を浴びせたり殴ったりすることは仕方ないことだろう。女性が被害にあったとき、「被害者にも落ち度がある」とさんざんたたかれることが、家父長制の強い性差別社会の特徴だ。私たちは当然、女性の痛みに鈍くなる。そういう社会で、女性が、「私たちを狙うな」と声をあげること自体にいらつくような感性が、韓国や日本社会にあるのだ。

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政権が女性たちにメッセージを発することはなかった