■死を受け入れない父親

 父親は抗がん剤治療を開始。高木さんは両親を気遣い、月に1度帰省した。

 ある日、高木さんが主治医と話していると、「私は自衛隊の人をたくさん見てきました。お父さんは軍人だから、不測の事態も覚悟していると思いますよ」と言われる。高木さんは違和感を覚えた。父親に、覚悟をしている様子が全く見られなかったからだ。

「父は会うたびに、『俺は自衛隊で鍛えられてきた』『奇跡は起こる。元気になる』と繰り返すばかりで、全く死を受け入れていない様子でした。しかしそう言われ続けると不思議なもので、言われた方は『元気になるかも』と思えて来るんです。だから私も、『元気になるよ。頑張って』と返していました」

 父親は宣告された余命半年を超え、2013年の3月頃には本当に元気になっていた。顔色も良く、ずっと調子が悪くて思うように食べられなかった好物の落花生も、好きなだけ食べられた。「言っただろ。俺は復活するんだ」と父は言い、高木さんは「良かったね」と笑った。

 ところが4月。高木さんが会いに行くと、父親は別人のように変わり果てた姿でベッドに横たわっていた。目はうつろで顔は土気色、声をかけても反応が薄く、がんによる疼痛にひたすら耐えて唸っている。

「父は死を受け入れていなかったため、緩和ケアを受けていません。母も、父は回復すると信じ、一縷の望みをつないでいたため、緩和ケア病棟に移るという選択肢を考えてもいませんでした」

 4月に主治医が変わったことをきっかけに、父親はがん性うつを発症。高木さんが病室に入ってきても、持ってきた妻や娘の写真を見せても、ほとんど意識を向けず、「痛い痛い、辛い辛い」と、痛みに耐えるのに精一杯の様子だった。

 そして5月。夜中に母親から「父危篤」の電話が入る。翌朝の新幹線に乗るため、準備をしている最中に父親は亡くなった。72歳だった。「お父さん死んじゃった…」という母親に、高木さんは「ああ、そう。今向かうから」とだけ答えていた。

■父の最期の姿

 高木さんは喪主として、通夜も葬儀も粛々と、そして淡々とこなした。

 しかし、通夜も葬儀も火葬も、一周忌になっても三周忌になっても、父親の墓前や仏壇に手を合わせるときに思い出されるのは、自分のことで精一杯になり、ベッドで苦しんでいる姿だけ。「親父、帰ってきたよ」と心の中で声をかけても、対話ができる状態ではなかった。

「3月に一度、奇跡のように回復したのは、今ならラストラリーだったのだとわかりますが、当時は分かりませんでした。父と話す時間は十分あり、本当は『死ぬとしたら最後に誰に会っておきたい?』という話をしたかった。よくドラマにあるような、『俺はもう長くない、母さんを頼むぞ』とか、『今までありがとな』とか、『ありがとう』『さよなら』みたいにピリオドを打てるような場面がなかった。父だけでなく、家族皆、死に向き合っていなかったからです。最期まで父は死をタブー視していましたが、それは私たちも同じでした」

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