母親の家に向かう電車の中で、欲しかったのはお金でもなく、広い家でもなく、夫の優しい態度だった、ただ優しくしてくれさえすればそれでよかったのにと思ったら、急に悲しくなって涙が出た。

 母親と暮らしながら仕事を探していると、日立交通が日勤(夜勤がない)のタクシードライバーを募集していた。タクシーの世界に不安はあったが、やるしかないと思い切って応募した。二種免許を取り、地理試験に合格した。もともと地図を読むのが得意ではなかったので、地理試験には特に苦労したが、必死で勉強をした。

 自分が外で働き母が家事をやってくれる生活は、家事が不得意な仲村にとって悪くはない。ずいぶん楽をさせて貰っていると思う。子供ともたまには会えるし、母の年金と自分の給料を足せば、女ふたりが細々と食べていけるだけのお金にはなる。

 仲村に「やめろ」と言った三人目の客は、「偉い人」だった。

「男性ふたりで乗ってこられたのですが、片方の方がもうひとりの方を、徹夜で接待していたらしくて、まずはゲストの方をご自宅に送り届けてほしいということでした。ご住所を伺って、だいだいこっちの方角だなと思って走り出したら、後部座席から道が違うんじゃないのとお話されているのが聞こえてきて、どうやら迂回してしまったらしいことに気づいたんです。それで、道を教えていただきながらなんとかご自宅にたどり着いてゲストの方を降ろしたのですが、やはり相当な迂回になってしまいました。

 走り出すと、残った方が、あの人ものすごく怒りっぽいのによく我慢してたよなとおっしゃって、そこから延々とお叱りが始まりました。自分は今日、講演会で話さなくちゃいけないのに、君のせいで午前中に眠る時間がなくなってしまったよ、もしも僕が君の上司だったら、君みたいな人間は、即、クビにするねとおっしゃいます。お顔はよく見えませんでしたけれど、とてもいいスーツを着ておられたし、物腰も上品な感じだったし、講演会でお話になるくらいですから、たぶん相当に社会的な地位の高い方だと思います。

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