四球を選んだ小野は、次打者・神崎吉正の2球目に二盗を決め、1死二、三塁。神崎が2ストライクから右翼線にファウルを打つと、スクイズはないとみた橋野監督は、田中をセンターの定位置に戻した。

 ところが、皮肉にも神崎の打球は、高いバウンドの二ゴロとなり、バックホームが高くそれる間に西村がサヨナラの生還。この瞬間、観音寺中央の春夏連覇の夢は消えた。

 実は、日大藤沢の鈴木博識監督は、89年の神奈川県大会決勝で内野5人シフトを2度試みるなど、その道の先輩。「転がせば、三塁走者は突っ込める」と確信し、神崎にも「叩きつけろ」と指示していた。せっかくの奇策も、相手側に「一日の長がある」と通用しないようだ。

 同じ95年に帝京・前田三夫監督が用いた2投手による小刻み継投も印象深い。

 初戦(2回戦)の日南学園戦では、先発の2年生右腕・白木隆之が6回まで1失点に抑えると、7回から3年生右腕の本家穣太郎にスイッチ。8回に白木が再びマウンドに上がるが、1死を取ると、再び本家がリリーフ。さらに延長10回1死から三たび白木が登板するというめまぐるしいリレーで2対1の接戦を制した。

 3回戦の東海大山形戦も、3回2死から本家がワンポイントリリーフしたあと、4回から白木が再登板。7回から再び本家がリリーフし、8対6と逃げ切った。

 継投のたびに、2人だけではなく、3人の野手までめまぐるしく守備位置を変更するため、“の目継投”の批判もあったが、「勝つには2人が(交互に)投げるしかない」という前田監督の信念が揺らぐことはなかった。

 そんな我慢の采配が報われ、一戦ごとに成長した白木は、準々決勝以降の3試合を一人で投げ抜き、6年ぶりVの立役者に。奇策がエースを一本立ちさせた一例と言えるだろう。

 野球漫画からヒントを得た奇策を成功させたのが、12年の済々黌だ。

 2回戦の鳴門戦、2対1とリードの済々黌は7回1死一、三塁、西昭太朗がショートの頭上に痛烈なライナーを放つが、河野祐斗がジャンプキャッチ。飛び出した一塁走者・松永薫平は帰塁できず、ボールは一塁に転送され、併殺でチェンジになった。

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「いつか実戦で生かそう」