●徳川幕府も庇護した「穴八幡宮」

 東京には、この「一陽来復」と書かれた金運のお守りを授与する有名な神社がある。それが早稲田にある「穴八幡宮」である。創建は八幡太郎の別名で知られる源義家が、八幡さまを祀ったことに始まるという。江戸時代になり、別当寺(江戸時代までは神社の管理を寺が行っていた)を作るため山を切り開いていたところ、横穴が見つかり中から阿弥陀仏(八幡さまの本地仏=本来の姿)が出てきたのだとか。このことから「穴八幡」と呼ばれるに至った。

 この穴は「神穴」と呼ばれ、現在、その前には出現殿が建立されている。江戸名所図会(江戸後期に発刊された江戸観光記)には、「高田八幡宮」として多ページにわたって掲載されていて、挿絵を見ると広い境内には今と変わらぬ長い階段や楼門、拝殿、本社、若宮、本地堂などとともにしっかりと出現地の横穴も記されている。

 徳川幕府は、このように人気の穴八幡宮を厚く庇護し、家光や吉宗も流鏑馬や絵馬などを奉納している。

●金運守りは場所と時間を気にするお札

「一陽来復」守は、冬至から節分までの間にしか頒布されない金運のお守りである。真冬から春に向けての一陽来復を祈念するお守りを求めて、全国から参拝者が集まってくる。一番混雑するのは冬至の日であるが、これは早く入手するほど縁起が良いと言われているためであろう。

 お守りは、毎年変わる吉方とともに家での祭り方(方角など)も変化する。そのため、お守りをいただく際に、祭る時間と方角などが記されている「取扱説明書」を一緒にいただく。このお守りの人気たるや凄まじく、わたしもあちらこちらの寺社で授与品をもらい受けているのだが「おいくつ(入り用)ですか?」と聞かれたのは穴八幡宮だけである。「ひとつで」と言うのが申し訳ないくらい、他のみなさんは友人・家族代表で来られていることを知った。

 明治時代の神仏分離令で、穴八幡宮の別当であった放生寺は別の宗教施設となったが、今も変わらず穴八幡宮に隣接して残っている。そして、放生寺でも冬至から節分までの間「一陽来福」守を授与している。江戸時代までは一緒の寺社だったのだから当然である。よく知った人たちは、穴八幡宮と放生寺の2つのお守りを得て「裏表参り」と言っている。みなさんは新年(新旧問わず)を迎える前の準備はお済みだろうか。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

著者プロフィールを見る
鈴子

鈴子

昭和生まれのライター&編集者。神社仏閣とパワースポットに関するブログ「東京のパワースポットを歩く」(https://tokyopowerspot.com/blog/)が好評。著書に「怨霊退散! TOKYO最強パワースポットを歩く!東東京編/西東京編」(ファミマ・ドット・コム)、「開運ご利益東京・下町散歩 」(Gakken Mook)、「山手線と総武線で「金運」さんぽ!! 」「大江戸線で『縁結び』さんぽ!!」(いずれも新翠舎電子書籍)など。得意ジャンルはほかに欧米を中心とした海外テレビドラマ。ハワイ好き

鈴子の記事一覧はこちら