映画でも35年8月のシーンとして、江波とは海を隔てた西側に位置する草津地区の祖母宅から、すっかり干上がった広大な干潟を歩いて帰宅する浦野一家の姿が描かれている。

 すずさんと同じ川からの視点で、1933年当時は広島県産業奨励館だった原爆ドームなどの風景を眺め、平和記念公園に隣接する境橋に近い船着き場に着岸する。残念ながら、すずさんが上陸した「森永ミルクキャラメル」看板そばの雁木は、すでに失われたとのことだった。

 ほぼすべてが失われた中島本町の旧商店街で、すずさんがショーウインドーの手すりに身を寄せた「大正呉服店」の建物だけは、広島平和記念公園のレストハウスとして、その姿をいまに留めている。

■呉線沿線に残る戦艦大和“目隠し板”の痕跡

 原爆投下の目標地点だった相生(あいおい)橋から、広島電鉄の本線に沿って広島駅を目指す。すずさんが嫁いでまもなくの里帰りから呉の北條家へ戻る途中、1944年3月のルートだ。

 つましい暮らしを続けるすずさんが、広島電鉄や呉市電の路面電車に乗ったことはない。江波から広島駅までは8キロほどあるが、すずさんは画帳を手に時折立ち止まり、中心街の相生通りの立町あたりの風景をスケッチしながら歩き続けている。

 胡町(えびすちょう)界隈の中国新聞社旧本社ビル近く、風呂敷包みを背負って歩くすずさんの傍らを追い越していく「驛前」行きの広島電鉄200形204号車も描かれていた。

 原爆投下により、当時在籍していた123両のうち108両が被害を受けたという広島電鉄だったが、生き残った社員が、「路面電車のいち早い復旧こそが、市民を元気づける最大の手段だ」と、懸命に工事を進めた。原爆投下から3日後の1945年8月9日には、己斐(こい=現・広電西広島)~西天満町(現・天満町)間で、復旧一番電車が運行を始めている。

 広島駅と呉線の列車は、映画にたびたび登場している。まず、すずさんの嫁入りの際に、浦野一家が広島駅の3番のりばから乗り込んだのは、海田市(かいたいち)から呉線に入る山陽本線の列車だった。客車のサボ(行き先表示板)には、「大阪行」「急行」とあった。

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小屋浦駅付近の車窓に広がる瀬戸内海