寡作ながらも作品を発表するごとに熱狂的なファンを増やしつづけている今村夏子さん。デビュー作『こちらあみ子』で三島由紀夫賞、第二作『あひる』で河合隼雄物語賞、第三作の『星の子』では野間文芸新人賞を受賞するなど、作品の評価もゆるぎない。その待望の新作長編『むらさきのスカートの女』が、6月7日に発売となった。「こんな小説は他にない」と、その内容に太鼓判を押す、批評家・佐々木敦氏に作品の魅力を聞いてみた。

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 今村夏子の小説はいつも、穏やかで牧歌的な雰囲気を醸し出しながら、なにげない風に始まる。だが、平易な言葉遣いと軽快なリズムに乗せられてスイスイと読み進んでいくと、いつのまにか最初には思いもつかなかった途方もなく遠い場所に連れていかれている。デビュー作の「こちらあみ子」も、最初に芥川賞候補になった「あひる」も、二度目の芥川賞候補となった『星の子』も、そうだった。そしてこの作品も、やはり私たち読者をここから遠く遠く離れたところへと誘い込む。とつぜん見知らぬ場所に立っていることに気づいた私たちは、しばし呆然とする。だが気づいたときには、もうすでに手遅れなのだ。

「わたし」は「むらさきのスカートの女」と呼ばれている女性のことが前から気になっている。呼ばれている、というのは精確ではなく、ほんとうは「わたし」が心の中で勝手にそう呼んでいるだけなのだが。どういうわけか「わたし」にとって「むらさきのスカートの女」は、ちょっとした街の有名人になっているのだ。「わたし」は「むらさきのスカートの女」と友達になりたい。そこで計画を練り、彼女を自分と同じホテル清掃の仕事に就かせることに成功する。しかも「わたし」は「むらさきのスカートの女」と知り合うことのないまま、色々と策を弄してそれを達成するのだ。新しい職場で「むらさきのスカートの女」は急速な変化を遂げてゆく。「わたし」はその様子を逐一密かに見守る。ある段階から、それはほとんど「監視」と言っていいほどの危険な行為になっていくのだが、なぜか相手はまったく気づいてないようである。しかもいつまでたっても「わたし」と彼女の距離は縮まらない。そして遂に「むらさきのスカートの女」の身に、ある事件が起こる。

 極力ネタバレにならないように配慮して書いてみたが、こんなあらすじから、この小説の結末を予想できる読者は、まず皆無だろう。「あひる」や『星の子』と同じく、勘所は「わたし」の語りにある。一人称の小説は、物語のすべてが「わたし」なり「僕」なりの主観を通して語られるため、そこで起こっている出来事が読者に正しく全部伝えられているとは限らない。それにこの小説の「わたし」は、「むらさきのスカートの女」のことにかんしてはやたらと饒舌なのに、自分自身については、あまり、というかほとんど語ろうとしないのだ。最初はあまり気にならないが、徐々に読者は「むらさきのスカートの女」よりも、むしろ「わたし」のほうが変に思えてくる。この語り手は、どこかおかしいのではないか。しかしそんな「わたし」のことだって、結局は「わたし」を通してしか、こちらは知ることができないのだ。つまり、何もかもがあやふやで、不確かで、欠落に満ちていて、謎めいてしまっている。まるで「むらさきのスカートの女」を語ることによって、「わたし」は「わたし」を隠そうとしているかのようなのだ。

 だがしかし、この小説の端々を仔細に読み込み、「わたし」の語りをつぶさに解析することによって、「わたし」によって隠されていた「わたし」の正体(?)が明らかになる、といったような読み方を、作者である今村夏子は読者に求めているわけではないだろう。語られざる部分を推理や想像で埋めてゆくことで、ある程度まで、表には出ていない「わたし」の真の姿を描き出すことは可能かもしれないが、おそらくほんとうに重要なことは、隠されていたものが何だったのか、ではなく、なぜ隠すことになってしまうのか、であるからだ。なぜ「わたし」は、それほどまでに「むらさきのスカートの女」を気にして、そしてそのことによって自分自身を(自分自身に対して?)覆い隠そうとするのか。そこには明らかに痛々しく切実な感情が見え隠れしている。もちろん、その内実だって幾重ものヴェールに覆われていて、読者に明快なかたちで与えられるわけではない。しかし、語り落とされていた、隠されていた真実とか秘密とかよりも、どうしてか、どうしても語れないということ、「わたし」が「わたし」のことをちゃんと語ることができない、ということの方を、作者がはるかに大切にしていることは確かであるように私には思われる。

 毎月やっている新聞の文芸時評のなかで、私はこの小説について、こんなことを書いた。「読む側の心持ちによって、ユーモア小説にも、不気味な話にも、痛ましい物語にも姿を変える」。これは本当にそうで、たぶん「むらさきのスカートの女」も「わたし」も、読者ひとりひとりごとに、まったく違う顔や表情を見せることだろう。そして彼女たちとともに、私たち読者は、最初の頁を読んだときには予想だにしなかった何処かへとたどり着く。おそるべきことに、その「何処か」の風景さえ、見る者によって、くるくると様子を変えるのだ。こんな小説は他にない。

(「一冊の本」2019年6月号「最初の読者から」より)