事故の一報を聞いた所属事務所「オフィス北野」の社長である森昌行は、状況を一通り把握した後、すぐさまたけし復帰に向けて動き出していた。

 事故直後のたけしの状態は衝撃的なものだった。顔面が倍ぐらいに腫れ上がり、集中治療室からは絶え間なくうめき声が漏れていた。森が最も恐れていたのは、そのようなたけしの状態が何らかの形で外部に漏れて、それを知ったテレビのスタッフが「復帰は不可能」という判断を勝手に下してしまうことだった。

 そこで森はあえて非情な決断を下した。徹底した情報統制である。たけしの家族と身のまわりの世話をするごく少数の弟子を除き、すべての人間を面会謝絶にしたのだ。たけしを崇拝するたけし軍団のメンバーですらたけしに会わせないようにした。これにはたけし軍団の面々も猛抗議したが、森はそれをはねつけた。

 さらに、森は連日のように自ら記者会見を開き、たけしの病状について詳細に報告をした。自分から情報を提供することで、それをテレビや雑誌がどういう形で紹介するのかを確認することができた。その反応を見て、次にどういう情報を出すのかを判断していた。「ビートたけし」というブランドの価値を守るために森は全力を尽くしていた。のちに独立騒動でたけしと森の間に亀裂が走るとは、この時点では誰も想像していなかった。

 その後、たけしはテレビへの復帰を果たし、映画監督業も再開した。1997年には『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。ビートたけしは「世界のキタノ」になった。

 たけしが地上波に復帰した最初の番組は、1995年3月4日放送の『平成教育委員会』だった。この放送は大きな注目を浴び、35.6%という驚異的な視聴率を記録した。これは平成バラエティ史上で最高の数字である。昭和末期に圧倒的な人気を誇っていたたけしだったが、平成に入ってからもその勢いは全く衰えなかったのである。

 私の著書『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)では、ビートたけしのバイク事故をはじめとして、14の事件を題材にして平成のお笑いの歴史を振り返っている。興味のある方はぜひ読んでみてほしい。(ラリー遠田)

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ラリー遠田

ラリー遠田

ラリー遠田(らりー・とおだ)/作家・お笑い評論家。お笑いやテレビに関する評論、執筆、イベント企画などを手掛ける。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』 (イースト新書)など著書多数。近著は『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)。http://owa-writer.com/

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