一体、ムネリンは、何をしているんだ?

 新たなるシーズンが、いよいよ始まろうとしているこの時期に、その“答え”が飛び込んできた。俺は今、野球ができる状態じゃない。だから、契約できない。球団の厚遇に甘えるわけにはいかない。薩摩隼人の川崎宗則らしい、男気にあふれた決断でもあった。

 王貞治監督(現・ソフトバンク球団会長)のもと、ダイエー(現ソフトバンク)が初優勝を果たした1999年。その秋のドラフト会議で、川崎は4位指名を受けて入団した。当時、球団から発表されたサイズは、身長179センチ、体重64キロ。屈強なプロ野球選手たちの中に入ると、その“か細さ”が、やたらと目についた。

 それでも、鹿児島工時代から、その打撃センスには定評があった。ついた異名は「サツロー」。薩摩のイチローを短縮したそのネーミングの青年が頭角を現したのは2003年のこと。チームリーダーの小久保裕紀(前・日本代表監督)が右膝靱帯断裂で戦線離脱。川崎は、小久保が抜けた三塁の穴を埋めるべく抜擢され、レギュラー格の選手へと成長を遂げようとしていた。

 その年、ダイエーは優勝。日本シリーズは、星野仙一監督率いる阪神との戦いとなった。

 当時、私が所属していたスポーツ新聞社で、両球団のレギュラーを、ポジション別に比較する連載が企画された。阪神のサードは片岡篤史(現・阪神1軍ヘッド兼打撃コーチ)だった。編集担当のデスクから「ダイエーのサードは?」と聞かれ、私が挙げた「川崎宗則」の名前に「えっ、川崎?」。そのいぶかしげなデスクの声は、いまだに忘れられない。

 川崎はその年、133試合に出場していた。レギュラー1年目だったが、まだ22歳の若手。片岡とは、知名度も、実績も、そして選手としての格が違い過ぎるといえば、確かにそうだろう。それでも、サード対決は、片岡対川崎の原稿になった。

 福岡ドーム(当時、現・ヤフオクドーム)の一塁側ベンチ裏に、選手が軽食を取ったりするサロンがある。試合のない日には、球団の許可があればそこで取材ができた。

私は、球団広報に川崎を呼んでもらった。

「どうしたんですか?」
「ムネリンの原稿がいるんや」
「僕っすか?」
「うん、ポジション別の連載やねん。サードで」
「阪神、誰ですか?」
「片岡や」
「えっ? それ、僕が相手で、大丈夫っすか?」

 後日、その掲載紙を川崎に手渡した。

「本当に“対決”してますね。うれしいなあ~」

 翌2004年、川崎は171安打で最多安打、42盗塁で盗塁王と、2つのタイトルを獲得して大ブレーク。ショートのレギュラーとして、不動の地位を築き上げた。その川崎が、常に目標に掲げ、背中を追い続けたのが、自らの異名「サツロー」の“源流”ともいえるイチロー(現・マリナーズ)の存在だった。

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「僕はイチローさんのストーカー」と公言