この頃には完全に「中日の顔」となっていた星野だが、その存在は一球団にとどまらないものとなっていく。2002年に中日のライバル球団でもある阪神の監督に就任すると、それまで9年連続Bクラス、4年連続最下位に低迷していたチームを立て直し、わずか二年でチームを優勝に導いたのだ。この時に星野が行ったのが大胆な「血の入れ替え」である。2002年のシーズンオフには実に20人以上の選手が退団し、金本知憲、下柳剛、伊良部秀樹などを獲得して主力を一気に入れ替えて、それが翌年のリーグ優勝に繋がった。結果的には長期的なチーム強化には繋がらなかったものの、何が何でも優勝を経験させるというこのやり方は長年低迷するチームの閉塞感を打破する意味では非常に有効であったと言えるだろう。健康上の理由で監督を務めたのはわずか2年だったが、阪神はその後も常にAクラスを争うチームへと変化している。

 その後は北京五輪日本代表監督に就任したものの本大会ではメダル獲得を逃し、星野の時代は終わったかに見えたが、燃える男の闘志はまだ衰えてはいなかった。2011年、球団創設以来下位に低迷する楽天の監督に就任。最初の2年間はBクラスに終わったものの、就任3年目の2013年には球団創設初の優勝、そして自身も初となる悲願の日本一を達成したのだ。阪神時代と同様に選手を大幅に入れ替え、松井稼頭央、岩村明憲など実績のある選手を獲得したものの、就任から二年間は結果が出なかった。そこで星野は中日監督時代に見せた積極的な若手の抜擢を断行。実績のある日本人選手、大物外国人選手と若手の融合は星野の監督としての集大成にふさわしいチームであった。異なる3球団を優勝に導いた監督は三原脩、西本幸雄に続いて史上3人目の快挙である。元々強かったチームを率いるのではなく、低迷するチームを立て直して優勝に導いたところはまさに反骨の男、星野の面目躍如と言えるだろう。

 星野が一球団だけの存在にとどまらなかったのには、野球界全体を考える視点があったことが大きかったといえる。2016年オフ、ルートインBCリーグの10周年記念式典で行われたシンポジウム、「日本プロ野球の未来と独立リーグが果たすべき役割について」の場で星野が訴えたのが野球界全体の利益を考えることと、その利益を底辺拡大に使うということであった。そのための一つの案が野球クジの導入である。「野球クジ=八百長」に繋がるという考えは安易で古いものであり、そこで立ち止まっていてはいつまでも進歩がないとまで話していた。野球クジの導入については昨年行われた自身の野球殿堂入りを祝うパーティーでも話しており、野球界の今後を願う気持ちが強いことをうかがわせた。強い敵に立ち向かい、野球界の発展を願った闘将、星野仙一。その強い闘志は最後まで衰えることはなかった。(文・西尾典文)

●プロフィール
西尾典文
1979年生まれ。愛知県出身。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究。主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間300試合以上を現場で取材し、執筆活動を行っている

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西尾典文/1979年生まれ。愛知県出身。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究し、在学中から専門誌に寄稿を開始。修了後も主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間400試合以上を現場で取材し、AERA dot.、デイリー新潮、FRIDAYデジタル、スポーツナビ、BASEBALL KING、THE DIGEST、REAL SPORTSなどに記事を寄稿中。2017年からはスカイAのドラフト中継でも解説を務めている。ドラフト情報を発信する「プロアマ野球研究所(PABBlab)」でも毎日記事を配信中。

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