亡くなった星野仙一氏 (c)朝日新聞社
亡くなった星野仙一氏 (c)朝日新聞社

 1月4日にすい臓がんで亡くなった星野仙一氏(享年70歳)。球界きっての闘将と呼ばれた男は最後まで弱い姿を見せぬままこの世を去ったが、改めてその野球人生を振り返ってみたいと思う。

 星野の野球人生は反骨の歴史と言っても良いだろう。倉敷商時代はあと一歩のところで甲子園出場を逃し、明治大ではエースとして活躍しながらも4年間で一度も優勝を果たすことができなかった。そしてドラフト会議では指名すると約束されていた巨人が高校生の島野修を指名したことをバネに『巨人キラー星野』が誕生したと言われている。星野の対巨人戦通算勝利数は35勝で、これは江夏豊と並んで歴代6位の数字である。これを上回る5人(金田正一、平松正次、山本昌、村山実、杉下茂)はいずれも200勝以上をマークしている名投手であるが、星野の通算勝利数は146勝。対巨人戦の勝率では前述した投手の中でもトップの.530であり、このことからも星野がいかに巨人戦に強かったかがよく分かるだろう。そんな『巨人キラー星野』のハイライトといえるのが1974年のシーズンだ。

 先発、リリーフでフル回転して15勝、10セーブをマークして巨人のV10を阻む原動力となったのだが、優勝を決めるマウンドに立っていたのが星野だったのだ。この年星野は沢村賞と最多セーブのタイトルも獲得している。しかし通算成績は前述したように200勝には大きく及ばず、名選手ではあったものの歴史に名を刻むほどではない。星野の凄さはむしろこの後の監督時代にあったと言えるだろう。

 1987年、40歳の若さで中日の監督に就任すると二年連続で三冠王に輝いていた落合博満を大型トレードで獲得。翌年には高校卒ルーキーの立浪和義をいきなりショートのレギュラーに抜擢するなど大胆な編成、選手起用を見せて就任2年目の88年には見事に優勝を果たした。1991年限りで一度監督を退任するものの、96年に再び復帰。合計11年間指揮を執り、2度のリーグ優勝と8度のAクラス入りという成績を残している。その中でも特に見事だったのが二度目の優勝を果たした1999年だ。1996年までの中日は「強竜打線」と呼ばれたホームラン攻勢が最大の持ち味だったが、翌年に開業した広いナゴヤドームの影響でチームは一気に最下位に転落。その教訓から投手を中心とした守りの野球にシフト。野手もトレードで関川浩一、久慈照嘉、外国人も李鍾範とスピードと守備に定評のある選手を獲得し、わずか二年でチームを一気に作り替えて優勝して見せたのだ。ここまで短期間で劇的にチームカラーを変えて結果を残した例はそうはないだろう。

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西尾典文

西尾典文

西尾典文/1979年生まれ。愛知県出身。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究し、在学中から専門誌に寄稿を開始。修了後も主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間400試合以上を現場で取材し、AERA dot.、デイリー新潮、FRIDAYデジタル、スポーツナビ、BASEBALL KING、THE DIGEST、REAL SPORTSなどに記事を寄稿中。2017年からはスカイAのドラフト中継でも解説を務めている。ドラフト情報を発信する「プロアマ野球研究所(PABBlab)」でも毎日記事を配信中。

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衰えなかった燃える男の“闘志”