この馬鹿らしい状況をどうにかしようと思い、私は生徒会長選挙に立候補することにした。生徒会はかなり形骸化していたが、利用できるものは利用しようと思ったのだった。選挙にトップ当選した私は、生徒に対して「パブリックコメント」を求め、各クラスでも議論してもらえるようにお願いをした。それと同時に先生方にも、なぜこのような規則が必要なのか、見直せる余地はないのかと個別に意見を聞いて回った。

 その中で特に興味深かったのが、生徒指導を担当している体育教師から出てきた言葉だった。彼は「決まりは、決まりだ」の一点張り、さらには「できない人間には、罰を与えてわからせるしかない」とまで言い放った。教育的な目的など考えようともしないし、生徒のことを信じているようにも思えない。教育という営みは、崇高な理念などといったものとは、全く別の論理で推し進められる側面もあるのだと痛感した瞬間であった。

 結局、その後議論を重ね、生徒の意見を集約し、生徒総会の議決でもって、「頭髪服装検査」のあり方を少しは見直すことになった。一連の動きに理解を示してくれる教員も多くいたが、否定的な教員もそれなりにいた。そのため私が生徒会長の任期を終えた後、気付けば元のように戻ってしまったこともあった。学校に存在している従順な人間をつくり出す側面は、本当に根強いものだと強く思った。

 考えてみると、従順であれという隠れたメッセージは、学校に限らずこの社会にあふれている。わかりやすい例は就活だろうし、様々な組織の中に守るためだけに存在する規則があるのではないかと思う。しかし本来的には、規則、あるいは道徳や倫理といったものも含む「決まり」というものは、それが存在する社会、またその社会を構成している人々と切り離せないもののはずだ。社会も、その構成員も、時がうつろえば、次第に変化していく。当然「決まり」もそれに応じて、不断に変化させていく必要がある。

 私たちは今一度「決まり」を守ることだけでなく、「決まり」をつくりかえていくということについても真剣に考える必要があるのではないだろうか。より多くの人が納得できるものにしていこうと考えていけば、「決まり」をつくりかえていく作業は、民主的に進められなければならない。学校であれば、教師や保護者、地域社会だけでなく、生徒も含めて、ひとりひとりの権利や意見を尊重する必要がある。そして完璧な「決まり」などあり得ないのだから、暫定的な決定とその見直しを繰り返していかなければならないのだと思う。

 今回の問題は、教育の問題であるとともに、この社会の問題だ。教育が変われば解決するというものではない。教育が変われば、その結果、社会も次第に変わっていくような気がするかもしれないが、実際には教育というもの自体に、この社会の有り様が反映されているのだ。教育現場だけでなく、家庭も、職場も、地域も、あるいは日本社会も、よりひとりひとりの権利が尊重される場に変わっていく必要がある。これは、この社会に生きるすべての人にとっての問題なのだ。

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諏訪原健

諏訪原健

諏訪原健(すわはら・たけし)/1992年、鹿児島県鹿屋市出身。筑波大学教育学類を経て、現在は筑波大学大学院人間総合科学研究科に在籍。専攻は教育社会学。2014年、SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)に参加したことをきっかけに政治的な活動に関わるようになる。2015年にはSEALDsのメンバーとして活動した

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