しかし彼は、世界を目指す若き小澤に「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と話し、自身は“底辺を広げる仕事”に力を注いだ。

 その代表的な功績が、1972~83年に放送されたテレビ番組「オーケストラがやって来た」である。同番組の音楽監督と司会を務めた直純は、毎回興味深いテーマを掲げ、芸能人や文化人をゲストに招きながら、“敷居が高い”クラシック音楽を、明快に紐解いた。欧米で飛躍していた盟友の小澤も帰国するたびに参加し、ヴァイオリンのスターンやパールマンなど知己の大演奏家をも引き込んだ。この番組は、真摯かつハイレベルながら誰もが愉しく理解できる内容で、クラシックの普及に大きく貢献。直純と同番組なくして日本における当ジャンルの隆盛はなかったと言っても過言ではない。

 残した作品は4000曲以上! 「男はつらいよ」全48作をはじめとする映画やテレビドラマ、CMの音楽を数多く手がけ、国連委嘱作品「天・地・人」の「人」、合唱組曲「田園・わが愛」などクラシックの名作も書いた。これに「迷混」「宿命」などの画期的なパロディ物や編曲を加えた才能は、「親父の一番長い日」の名アレンジを契機に、公私両面で親交を深めたシンガーソングライターのさだまさしをして「天才」と言わしめた。

 指揮者・直純は、日本フィルの「ウィット・コンサート・シリーズ」で評判を呼び、1972年には小澤征爾と共に新日本フィルの設立に参画して、指揮者団の幹事を務めたほか、様々なオーケストラを指揮してポピュラリティ豊かなコンサートを多数行った。1979、80年には世界に名だたるボストン・ポップスを指揮。同楽団のフルコンサートを指揮した唯一の日本人となった。1983~98年には大阪城ホールにおける「一万人の第九コンサート」で音楽監督&指揮者を務め、膨大な演奏者をまとめる凄腕を発揮した。

 惜しむらくは1978年の交通違反スキャンダルだ。これによって直純は、決まっていたNHK交響楽団の定期演奏会の指揮を断念した。もしこのとき指揮していたら彼の評価は大きく変わっていたに違いない。

 小澤が「本当にかなわない。彼の方が圧倒的に上だった」と語る天才音楽家・山本直純を今一度見直し、彼が残したメッセージを改めて噛みしめたい。