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なぜ富山で…赤穂浪士を偲ぶ茶会が300年以上も続く理由

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312回となる林義牧派遠州流茶道の義士忌茶会

312回となる林義牧派遠州流茶道の義士忌茶会

大石内蔵助が京都の普門院に宛てた書簡

大石内蔵助が京都の普門院に宛てた書簡

大石内蔵助の義姉、満が持参した文箱を作り替えた風炉先

大石内蔵助の義姉、満が持参した文箱を作り替えた風炉先

 師走も半ばになると、各地で赤穂浪士にちなんだ茶会開かれる。討ち入りや『仮名手本忠臣蔵』の舞台ではないのに、その地で深く根付いているケースもある。例えば富山で毎年開かれる「義士忌茶会」、その歴史は300年以上に及ぶ。赤穂浪士と富山、どんな縁があるのだろうか?

 毎年、富山市内で開かれる義士忌茶会、正式には「林義牧派遠州流茶道の義士忌茶会」という。席主を務める磯野宗和家元によると、始まったのは、赤穂浪士が切腹した翌年の1704年(元禄17年)。12月13日に行われた今回の茶会で、312回目を数える。暦が西暦に変わった1873年(明治6年)には2度行い、戦後はGHQ(連合国軍総司令部)が「忠臣蔵」の上演・上映を禁じた際にも、こっそり数寄者のみを招いて開催した。茶席は311年間、途絶えたことがない。

「赤穂義士ゆかりの品々がご覧いただけますよ。別の流派の方はもちろん、茶道の心得がない方もどうぞ」という家元の言葉に甘え、不作法を承知で茶会に足を運んでみた。

 待合には、錣(しころ)と椀が飾ってある。錣とは兜(かぶと)から垂れ下がり、耳と首周りを覆う防具のこと。当時は消防士のヘルメットに付いている耐火覆いのように用いられ、一家の台所を守る女性の必需品だった。

 これらを嫁入り道具として携え、富山藩士・磯野長定に嫁いだのが、赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助の義姉、満(まん)である。家系図によると、満は内蔵助の祖父の養女となっているが、血縁上は父のいとこにあたる。磯野家は遠州流茶道を継承しており、その末裔が磯野宗和家元というわけだ。

「満の嫁ぎ先がたまたま磯野家だった縁で、茶会と法要が結びついて『義士忌茶会』になったのです。身内だけでなく茶道の関係者も加わり、内蔵助ら赤穂義士をしのぶ行事として長く続いてきました」(前出の家元)。

 なるほど、茶席は赤穂浪士ゆかりの品々が集められている。床には、討ち入りの年である1702年(元禄15年)3月、内蔵助が京都の普門院に宛てた書簡が飾られていた。普門院は六波羅蜜寺を指す。当時の住職が、浅野家の祈願寺である赤穂遠林寺の前住職だったことから、お家再興へ助力を求めて書き送ったものらしい。


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