「人間って、何か持っているようでいて、なんも持っていないんだな」大阿闍梨が遺した“最期の言葉”
「人間って、何か持っているようでいて、なんも持っていないんだな」大阿闍梨が遺した“最期の言葉”

 7年がかりで約4万キロを歩く比叡山(ひえいざん)延暦寺の荒行「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」を2度満行し、“生き仏”と称され、惜しまれつつ昨年9月、87歳で亡くなった天台宗大阿闍梨(だいあじゃり)の酒井雄哉(ゆうさい)さん。平易な言葉で人生の意味や生きる姿勢を説き、多くの人に親しまれた。ベストセラー『一日一生』(朝日新書)の担当編集者が聞いた最期のメッセージは、意外なほどシンプルな言葉だった。

(本文)
 「ただ、感謝だな……」

 最後に酒井さんにお会いしたのは、亡くなる3日前の9月20日だ。

 酒井さんが住職を務める大津市坂本本町の比叡山飯室(いむろ)不動堂長寿院を訪ねると、座椅子に腰を掛け、目を閉じていた。声をかけると、目を開き、ニコニコとほほ笑み、ひと言、ひと言、ゆっくり、ゆっくりと話された。

 「思考力がなくなってきたんだよなあ。痛みもなんもないんだよ。人間の体はうまくできてんねえ」

 いま、どんなことが頭に浮かぶかと聞いてみると、

 「それがねえ、なんにも、思い出さないねえ……。欲がなんにもなくなっちゃったの。なんにもないんだな。人間って、なにか持っているつもりでいて、なにも持っていないんだな……」

 こう言ってまた目を閉じた。

 お見舞いを兼ねたこのインタビューが最後の面会になってしまった。短い時間に、「感謝」という言葉を数回繰り返されたのが印象的だった。

 「感謝」は何に対しての言葉だったのか。

 仏の道に至るまでの酒井さんの半生は壮絶だった。

 太平洋戦争時には、予科練へ志願し、特攻隊基地・鹿屋(かのや)飛行場(鹿児島)に配属された。仲間たちが次々と命を落とすなかで終戦を迎える。

 戦後は、大学図書館員、株屋、ラーメン屋など職を転々とした。結婚し家庭を持ったが、わずか2カ月で妻が自殺するという無常を味わった。そのためか、よくこう言っていた。

 「寺ですることだけが修行ではないよ。誰にとっても、生きていることが修行なんだな」

 導かれるように比叡山へ向かい、1965年、39歳の時、得度した。20代の若者たちに交じって叡山学院で学び、72年3月、首席で卒業。数々の厳しい行を経て、死と隣り合わせの荒行、千日回峰行に挑む。

 80年10月、54歳で満行。すぐに2度目の回峰行に挑み、87年に満行、60歳だった。2度の満行を果たしたのは、記録の残る約400年間でも3人しかいないという。

 80代半ばになっても、真冬も毎朝、滝に打たれ、山を歩いていた。寺の行事とともに、全国での講演なども精力的にこなしていた。

 そんな酒井さんが、2012年2月くらいから、「最近、入れ歯が合わなくて」とこぼすようになったという。やがて頬が腫れてきた。同年12月、東京の大学病院で精密検査をして頭頸(とうけい)部にがんが見つかり、かなり進行していることがわかった。

 13年1月上旬に入院して手術を受けた。術後の経過はよく、入院中は、散歩をしたり、東京ドームで大好きな阪神戦を観戦したりしていたという。順調に回復するかに思えたが、それから少しして、転移が見つかった。放射線治療なども試みたが思わしくなく、最後の時を過ごすために、自坊の長寿院に戻った。同年9月5日には誕生日を迎え、数え年の米寿を迎えることができた。

 そして23日午後2時27分。静かに息をひきとった。

 葬儀は天台宗の開祖、最澄の生誕地といわれる大津市の生源(しょうげん)寺で営まれ、大勢の人々が参列し、別れを惜しんだ。

 仏教では、この世で人間に避けられない四つの苦しみがあると説く。「生老病死」。生まれること、老いること、病気をすること、死ぬこと。酒井さんはそのすべてを歩き、仏のもとに向かわれたのだろう。

 「行の最中、力尽きてここで倒れて死んだら、ぼくの体は小山(おやま)の土になるんだなあと思った。それがうれしいような気がした。いろいろな生き物たちの栄養になれるなら、それは幸せなことだなあと」(『一日一生』より)

 17万部超のベストセラー『一日一生』(朝日新書)に続き、亡くなる3日前の貴重なインタビューを収録し、これまでのたくさんのお言葉から厳選してまとめた『続・一日一生』(同)が3月13日、発売になる。ぜひ、心にしみる言葉の数々に触れてほしい。
(朝日新聞出版・友澤和子)