第19回 万国博出展招請アフリカ旅行 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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第19回 万国博出展招請アフリカ旅行

文・堺屋太一

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■エチオピアの赤いテント

 私は 100回以上海外旅行をしたが、最も記憶に残るのが1968年の「アフリカ・ヨーロッパ40日間」の旅だ。主な目的は日本万国博覧会へのアフリカ諸国の出展招請、2泊か3泊の滞在期間で最低2億円以上を要する出展を承諾させよう、という気忙しい日程である。

 6月中旬、まず日本航空でバンコクへ、初老の元商社員の万国博委員会協会嘱託氏との二人旅。ここでは泊まることなくインド航空に乗り換えてボンベイ(現ムンバイ)へ。夜遅く着いて1泊、翌日はアデン経由でエチオピアのアジスアベバに着いた。

 ここでは2泊3日の出展交渉。ハイレ・セラシエ皇帝治下のエチオピアは大の親日国だったせいか、竹にテントを張る独立パビリオンの出展する、と約束してくれた。流石は東京オリンピックのマラソンで優勝したアベベ選手の出身国、と妙に感激したものだ。

 次はケニアのナイロビに飛び、ウダンガのカンパラまで1泊の往復旅行。ここでも出展了解を取り付けた。

 次は東アフリカの大国ケニア。経済協力を見返りに出展契約は成功したが、結局この契約は果たされなかった。出展代表となった人物が不祥事を起したらしい。

■ナイロビ―ダルエスサラーム自動車旅行

 次はタンザニア。駐タンザニア日本大使の勧めもあって陸路を走破することにした。まず南に400㎞、キリマンジャロ南麓の自然公園内で1泊、夜明けの草原にうごめく象や縞馬の群を楽しんだ。午前10時過ぎにはホテルを出発、マサイ草原を横断して600㎞、深夜にダルエスサラームのホテルに着いた。

 当時、タンザニアには既に中国が進出、タンザニア-ザンビア鉄道の建設に従事する中国人が大勢いた。これを彼の地では「鄭和の記憶」と呼んでいた。

 鄭和とは、明朝三代目皇帝・成祖永楽帝に仕えた大提督。15世紀初期に1万トン級の超大型帆船60余隻の大艦隊を率いて4回もインド洋を横断、アラビア半島を訪問した。その際に艦隊の一部はアフリカ東岸を南下、ダルエスサラームに達したという。ここの博物館には、その時にもたらされたという明の磁器や穴あき銭が陳列されていた。

 タンザニアはすぐ出展を決定してくれたが、「万国博にも出演させたい」というマサイ族の行列踊りを3時間も見せられた。その単調なリズムは40年後の今も忘れていない。

■マダガスカルは「アフリカではない」

 ダルエスサラームでは3泊した。次はマダガスカルだ。

 マダガスカルの首都タナナリブでまず驚いたのは寒さ。「南部アフリカは暑い」と思い込んでいた私は夏服しか用意していなかったが、タナナリブでは寒さに震えた。南緯16度に位置するが高度は1400m、南半球の7月は真冬、夜は10度を下回った。

 マダガスカルでもう一つ驚いたのは英語が全く通じない。中心街はクレマンソー通り。第一次世界大戦中のフランス大統領の名だ。そこのレストランでは「ウォーター」が通じない。フランス語のつもりで「オー」といったが分からず、念のために「H2O」と書いて見せたがもちろんダメ。結局コカコーラを注文してやっと水分にありついた。

 マダガスカルの政府高官からまず聞かされたのは、「マダガスカルはアフリカではない」ということだ。民族的言語的にはマレー系という。確かに人々の容貌も街の景色もアフリカよりもマレーに近い。

 海流の関係でアフリカ大陸との間のモザンビーク海峡は渡り難いが、マレー半島からはインド洋を就航してマダガスカルに着けたらしい。

 結局、この国はアフリカ諸国と並んで独自の展示館を建てた。

■モーリシャスの世界地図には日本がない

 ここで日本万国博協会の初老職員と別れ、以降は一人旅。向かうは東方800㎞の孤島モーリシャス、1968年3月(私が訪ねる4ヶ月前)に独立したばかりの島国だ。大使館も駐在員もいないし、どんな役所があるのかも分からない。

 まずこの国唯一の国際空港プレザンス空港に降りて電話帳を繰った。「ミニストー・オブ・コマース(商務省)」がある。「万国博の担当はここだろう」と考えてタクシーを走らせた。

 モーリシャスはアフリカともマダガスカルとも違っていた。面積は約2000平方キロ、人口は約120万人、大阪府ほどの面積の山形県か石川県ほどの人々がいるのだ。住民の大部分はインド系、イギリス統治時代に移住して来た人々である。

 島の南東部に位置する国際空港から西北部にある首都のポートルイスまで約30㎞、考える間もなく官庁ビルに着いた。商務省は9階建て官庁ビルの3階にあった。

 そこの受付の女性は来意を告げると、私の顔をしばらく見詰めた末にいった。「あなた本物の日本人か。それならアルーフ局長のところに行け、アルーフ局長はこの国で日本に行った唯一の政府高官です」

 実際、アルーフ局長はよくしてくれた。3泊4日の滞在中に約2億円相当の出展参加を決めてくれただけではなく、遠来の私にテレビ出演の機会も用意してくれた。

 だが、テレビ・スタジオに貼られた「世界地図」には日本がなかった。東経60度圏のモーリシャスを中心に描かれた世界地図は、西経130度(アメリカ西海岸)から東経130度だけを描き、太平洋の真ん中は切れているのだ。東経 130度線は、朝鮮半島の東海岸沖を通り九州の西岸沖を通っている。つまり沖縄(当時はアメリカの統治下)以外の日本国土は完全に外れてしまうのだ。

「日本はこの辺にある人口1億人の美しい国だ」-私は世界地図の枠の右外を指差して叫んだ。

 コーヒーと砂糖を主産物とするモーリシャスは中南米諸国と並んで展示館を建てる。それと平行して、日本のまぐろ漁業の基地ができ、相当数の日本人が常駐するようになった。それもまたアルーフ局長の仕事だったと聞く。

(週刊朝日2014年12月5日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載19に連動)


(更新 2014/12/ 4 )


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堺屋太一(さかいや・たいち)

 1935年生まれ。本名は池口小太郎。60年に通商産業省に入省し、大阪万博をプロデュース。退官後は作家・経済評論家として活躍。経済企画庁長官を務め、現在は内閣官房参与。主な著書に『団塊の世代』(文春文庫)、『平成三十年』(朝日文庫)など

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