<自分でなりたい、なりたくないにかかわらず、結構なるべきものってあると思うんですよね、役者の世界って。私はそんな気がするんですよ、その人の持ってる感性とか(中略)……結局その役柄にいかにその人間が合っているかによって、結構選ばれちゃうことってあるような気がするんです、私は>(注3)

「役にあわせて自分が変わること」より、「役にふさわしい資質をもともと持っていること」が大切である――これが斉藤由貴の持論です。斉藤由貴にとって「演じること」は、「他の何かになること」ではなく、「自分の内なる何かを抽出すること」なのでしょう。

 小泉今日子の演技論はそれと正反対です。上の斉藤由貴のインタビューと同じ時期に、こんな発言をしています。

<割と『生徒諸君!』のように、バカみたく可愛い役の方がいいんですけど。現実離れっぽいのが好きというか、現実的だと何かこう照れ臭いですよね。他人が(私のことを)こう見てるんだと思っちゃうと恥ずかしい気がするし、本当の自分にあんまり自信がないから、いつもごまかしてるっていうか、無意識のうちに本当の自分とちょっと違うことをしていて、それが他人から本当のコイズミだって見えちゃうのってラッキーだと思う>(注4)

 小泉今日子は「『虚像』を『実像』と誤認されること」に喜びを見いだしています。当時の彼女にとって、演技は「自己表現」ならぬ「自己隠蔽」の手段でした。役に応じて大きく雰囲気が変わるのは、他人になりきることで「本当の自分」を隠そうとしているからだといえます(ということは、『十階のモスキート』のリエも、当人と境遇は近くても、「素」で演じていたわけではなさそうです。リエの「存在感」は、あくまで監督の演出と女優の演技力の賜物なのでしょう)。

 演技論としては、斉藤由貴と小泉今日子のどちらが正しいかは一概にいえません。小泉今日子自身、2000年に相米慎二監督の『風花』に出演し、「本当の自分」を役づくりに生かす術を学んでもいます(助川幸逸郎「小泉今日子が女優として成功したのは元夫のおかげ?」dot.<ドット> 朝日新聞出版参照)。

ただし、すでにバブルの好況が始まっていた1986年の空気には、斉藤由貴の発言のほうがなじんでいました。

この時期、ごく平凡な女子大生が数十万円のアクセサリーを贈られることが珍しくない世の中になっていました。セレブ並みのあつかいを受けることで、多くの女性が「私はセレブ級に凄いのだ」という「勘ちがい」をしていました。そうした人びとは「自分は特別何もしないのに凄いのだから、努力して何かのスキルを身につける必要はない」と考えはじめます。そのため、「『ありのままの自分』を称賛されることこそがすばらしい」という雰囲気が世間に蔓延しました。たとえば、「an・an」1987年10月16日号には、次のような言葉が見えます。

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