サンクトペテルブルク  エルミタージュ美術館は、変わらぬ壮麗な姿でそこにあった。しかし、川側から見ると、倉庫街に見えなくもない
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モスクワ  建設中のモスクワ・シティ。「都市の中の都市」ともいうべき、一大都市再開発プロジェクト。大規模商業・業務・住宅・娯楽コンプレックスに行政機関も移る予定
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ムルマンスク  駅に止まる貨車と社会主義時代に建てられた団地。北緯68度の北極圏にあるムルマンスクは、1910年代に創設され、現在でも30万人が暮らしている
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 昨年7月、ロシアを一か月ほど旅して、モスクワ、ノブゴロド、サンクトペテルブルクといった西部の都市を訪れた。以前、1995年にモスクワとサンクトペテルブルクを観光したことがある。ちょうど、第二次世界大戦中にドイツに分捕られた近代絵画がロシアに返還され、それらを憧れのエルミタージュ美術館で特別展示すると知り、その展覧会を見に行ったのだ。その頃は、航空券・ビザ・ホテルの手配をすべて所定の旅行代理店を通して事前に行わなければならず、時間がかかる上に外国人用ホテルは大変高かった。最近はそれらをすべて自分で手配でき、安くて清潔で安全なホステルが町ごとにたくさんできた。そこで、夏休みに、隣国のラトビアで5年に一度開催される民族の歌と踊りの祭典を見に行ったその足で訪れてみた。

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 久しぶりに歩いたサンクトペテルブルクは、随分と雰囲気が変わって明るくなっていた。18年前は、社会主義体制が崩壊して数年経っていても街角に広告がほとんど見られなかった。壮麗だが時代がかった建物が並ぶ表通りを古い路面電車がガタンゴトンと走る様は、まるで帝政ロシアを舞台とした大河ドラマのセットのようだった。そして、その街並みの偉容と不釣り合いな地味な身なりの市民が、厳しい顔つきで一種独特な陰鬱さを引きずりながらゆっくりと歩いていた。大きな建物の一角には必ず小さなカフェがあり、その一軒にランチを食べに入ると、暗い店内では男たちがタバコをふかしながらトランプに興じていた。カウンターの向こうにぼんやりと座っているおばさんに軽食を頼むと、無表情のまま、ボルシチと、ピラフ、ポテト・サラダ、カツレツ一揃いをお皿に可愛らしく盛り付けた定食を出してくれたことを思い出す。いまや、同じ通りにはカラフルな看板が立ち並び、銀行のATMがそこここに設けられている。歩行者天国となった街路にはロシア人や海外からの観光客が溢れ、駅前にはショッピング・モールまで出来ていた。人々の顔つきは前より緩やかで、家族連れ立って楽しげにそぞろ歩いている。あの定食が恋しくなってカフェを探したが見つからず、代わりに制服を着た若い店員が立ち働く高級レストランが軒を連ねていた。

 初めてのロシア旅行では、サンクトペテルブルクからモスクワ行きの夜行寝台に乗ったが、朝、目覚めるとハンドバックの口が開いて、中の財布から現金だけがきれいに抜き取られていた。パスポートや、その頃まだロシア国内では普及していなかったキャッシュ・カードやクレジット・カードは手つかずだった。何者かがコンパートメントの鍵を開けて、侵入したのだった。太ったおばあちゃん車掌が執拗に勧める紅茶を飲んだこと、鍵をしっかり閉めたことが寝る前の記憶だったので、睡眠薬を盛られたに違いないと思った。今回も同様に夜行電車でモスクワに移動したが、制服をきりっと着たおばさん車掌がてきぱきと応対し、紅茶に異常はなかった。そして朝起きると、同室の下段に寝ていたロシア人ビジネスマンたちが、「お早う。きみ着替えるんだろう? その間は外に出ているよ。」と、私が支度しやすいようにコンパートメントの外の通路で待っていてくれた。また、私が洗面所に行っている間、PCなどの貴重品をベッドの上段の隅に置いたままでも、全く問題なかった。

 モスクワの中心部も随分ときれいになっていた。人々の表情が明るく、若い人たちの英語が上手なことに驚いた。宿を目指す途中、路上で地図を広げていると、「どこに行くの?」と出勤途中の若くてチャーミングな女性に流暢な英語で話しかけられた。ホステルの住所と地図を見せると、「ああ、それならこっちよ。私の行く方向だから一緒に行きましょう。」と付き添ってくれた。建物が近づくと、「どの入口なのか聞いてあげるわ。」と自分のスマホで宿に電話をかけ、オートロックのドアを開けて「よい一日を!」と笑顔で私を見送ってくれた。そのまま階段を上がって受付に着くと、英語の達者な好青年が手際よく私を案内してくれた。そのホステルは赤の広場の近くにあったが、付近の通りはきれいに整備され、建物は明るい色で塗り直されて、銀座のように高級ブランドショップが並んでいるところまであった。

 モスクワを発つ時は、ホステルの別のスタッフが、私の一人旅を心配して列車の時刻をネットで調べた上に、次の宿に電話をして予約や行き方を確認してくれた。到着が真夜中になるとわかったが、私が「いろいろ確認してくれて有難う、これで大丈夫だわ!」と言うと、「何て君は勇敢なんだ。普通、男だって初めてのところに行くときは怖いじゃないか!」と驚いている。「だって、あなたが全て調べてくれたし、ロシアは安全でしょう、駅からのタクシーは危ないの?」と聞くと、「いや、そんなことはないよ、ロシアは大丈夫だ」と自分に言い聞かせるように応え、支度をする私に、小さなお守りを持たせてくれた。そして私のバックパックのベルトの絞め具合を点検し、まるで親友を見送るように私をしっかりと抱きしめて、「僕らはウォッカで酔いどれてばかりいる赤ら顔のじゃないからね!」と冗談を言いながら玄関先まで見送ってくれた。彼のおかげか、私は予定通り真夜中過ぎに無事到着することができた。

 今、ソチで開かれている冬季オリンピックをテレビで観ていると、1980年の夏に開催されたモスクワ・オリンピックの閉会式の最中、マス・ゲームで描かれた大会マスコットのこぐまのミーシャが、一粒の涙を流したことを思い出す。前年のアフガニスタンへのソ連侵攻に反対した西側諸国が、オリンピックをボイコットしたことを悲しんだ演出だった。それを見た時、非情で機械的な反応しかできないと思っていた人たちも、私たちと同じ感情を持つのだと知ってハッとした。そして今回の西ロシアの旅では、前回見かけた無表情でつっけんどんな人たちが減り、各所で私を助けてくれた若者たちは、ソ連崩壊前後に生まれた世代だと気がついた。「ここは世界で最も腐敗した国の一つなのに君は何を見に来たの?」と、英語で軽やかに冗談交じりの挨拶をする彼らと出会い、社会主義というベールの下で汚職と寒さを笑い飛ばしていたロシアの顔を表に出して、彼らが外国人と自然に付き合える時代になりつつあることを実感した。私も、これを機に以前の体験から得たイメージをあらためて、こうした若い世代と将来をつくっていけるよう頭をひねる必要があると思った。