クリント・イーストウッド監督の『チェンジリング』を観てきました。かなりネタバレの話になりますので、気になる方は今回は映画を観てからお読みいただいた方がいいかと思います。

1928年、ロサンゼルスで一人の少年が行方不明になりました。5ヶ月後、警察が発見したと言って連れてきた少年は全くの別人でした。

母親がそのことを警察に訴えると、ミスの発覚を恐れた担当の警部は彼女を精神病院に入院させてしまいます。そこには、彼女と同様に警察に逆らったというだけで病気でもないのにずっと入院させられている女性達がいたのです。

とんでもない話ですが、実話です。当時のロサンゼルス警察の腐敗が生んだ悲劇なのです。

別の場所で発覚した少年を標的にした連続誘殺人事件、その被害者に母親の子供がいたことから、彼女の訴えが真実であったことがわかり、精神病院を退院できます。

自由になった彼女が真実を求めて、権力と戦っていく姿を、イーストウッド監督は静かに力強く描いていきます。

主演のアンジェリーナ・ジョリーも好演しています。ですが、やはりイーストウッドです。もう80歳目前の彼ですが、老いてますます切れ味が鋭くなっていると感じました。

先日、宮藤官九郎(くどうかんくろう)さんから、この映画のことで面白い話を聞きました。

彼が山田太一(やまだたいち)さんと対談をしたとき、最近観た映画の話から『チェンジリング』の話題になったのですが、山田さんは、どうも気に入らなかったらしいのです。

実の息子になりすました少年の視点が描かれてない。むしろ語るべきは、10歳やそこらで他人の子供になりすまし続けたその少年をこそ描くべきだろうと山田さんは語ったらしいのです。

「いやあ、さすが山田太一と思いましたよ。こだわる視点が全然違う」

宮藤さんは彼独特の口調でしきりに感心していました。

確かに映画は、子供を取り戻そうとする母親が真実を求めて警察機構と戦っていく様が中心になります。なりすました子供は、ある種ステロタイプのモンスター、つまり彼女にとっての敵の一部という描かれ方になっていました。

映画の芯をぶらさないためにはむしろその方がいいのだろうと、僕は思います。

でも、確かに、なぜその少年は彼女の息子と言いはったのか、いったい何が彼をそうさせたのか。『ふぞろいの林檎たち』や『男たちの旅路』など、社会のメインストリームからはずれたところで、自分なりの生き方を求めてあがく人々を描くのを得意とする山田さんならではのこだわりだと思います。

「じゃあ、宮藤君はあの映画の誰が気になった?」と聞いてみました。

「僕はあの連続殺人犯ですかねえ」

彼は答えます。

犯人のゴードン・ノースコットは、実際にも逮捕の後供述を何度もひっくり返したり、精神的に不安定になったりして、結局事件の全貌ははっきりしないまま、死刑になりました。映画ではより不条理な発言を行う描写になっています。その不安定感は確かに大人計画的というか、宮藤さんが好むのも凄くうなずけるのです。

僕はと言えば、やっぱり権力に押しつぶされそうになる個人と、それに抗い自分の意志を貫いていく母親に感情移入してしまうのですね。

「ほら、戦いが好きな作風だから」と言うと、宮藤さんもなるほどねという顔をしていました。

同じ映画なのに、これだけ視点が違う。

やっぱりそれぞれの作風が反映されるものなのだなあと、感心してしまいました。