「女の子写真」を超えて

 ことに公募展で目立っていたのは、長島をはじめとする20歳前後の女性たちだった。

 たとえば「写真新世紀」の第1回から5回までのグランプリをみると、ヒロミックス(現・HIROMIX 第4回)、野口里佳(第5回)という、木村賞の受賞者を含む、4人が女性。また「写真『ひとつぼ展』」では野口のほか、やはり後に木村賞を受賞する蜷川実花(第7回)や川内倫子(第9回)らがグランプリを獲得している。

 こうした女性写真家の作品の傾向には、親密な友人のヌードやセルフポートレートなどが多数みられた。また色彩の鮮烈さや、それが強調されるカラーコピーを使うなどの特徴もあった。それは写真が手軽な自己表現の手段になっていたことを示すと同時に、見られる立場として男性写真家に撮られ続けてきた若い女性たちが、見る側に立ったことを物語っていた。つまり男性優位の写真界の在り方への問い直しを含んでいた。だが、男性誌などでは、当時問題になっていた少女たちの性の商品化と、安易に結びつけられることも少なくなかった。

 そんな彼女たちの同時代性に着目し「女の子写真」や「ガーリーフォト」といわれるブームのけん引役となったのがカルチャー雑誌、ことに「STUDIOVOICE」(インファス)における「シャッター&ラブ」(95年8月号)、「ヒロミックスが好き」(96年3月号)といった特集だった。前者のタイトルは、飯沢の監修で96年に出版された16人の女性写真家のアンソロジー写真集としても使用され、ブームを表すキーワードともなった。また、彼女らに活躍の場を提供したのが「ROCKIN' ON JAPAN」(ロッキング・オン)などの音楽雑誌だった。

 本誌はやや遠くから女性写真家たちの活躍を眺めていたが、95年7月号のヌード特集でその作品を初めてグラビアで紹介した。「親密な身体:20代女性作家の作品から」で木村友紀、蜷川、長島、中野愛子が掲載され、解説として布施英利が「獲得された新しいまなざし」を寄せた。

 布施は彼女らの作品にはナルシシズムと「自分を突き放し、オブジェ化し見つめるという態度」が同居することを評価しつつ、「このようなまなざしを獲得したら、あとは撮るのはセルフヌードでなくても別によい」とさらなる成長を促している。また編集後記には担当の崔麻砂が、彼女たちが「いつまで自然体でいられるかが勝負かも」と記している。

 可能性に注目しつつも、商品として消費されてしまうことを危ぶむ声はフォト・ウオッチングにも見られる。たとえば96年4月号では横浜美術館の学芸員だった倉石信乃がヒロミックスについて、流行として消費された後も自らの意思で撮り続けてほしいと語っている。そのとき、はじめて「その作品がアートになる」からだ。また同年11月号で長野重一は、写真は必ずしも上手である必要はない表現であり、彼女たちのある種の乱暴さが素朴な共感を呼んでいると分析。ただし、それだけに「ただ、うまくなったらだめになっちゃう人がほとんどだろうと思う」と予測した。

 彼女たちを遠くから見ている本誌を批判したのは、97年10月号のゲスト、音楽評論家の渋谷陽一だった。ロッキング・オンの社長でもある彼は、同社の雑誌「H」や「CUT」でも若い写真家を積極的に登用していただけに、「カメラマンの選択についても非常に保守的」だと指摘する。さらに他誌のレイアウトさえ大所高所から批判するのに、作品が「何かこの雑誌に収まると、写真がすごく昭和30年代化する」とも厳しく突いた。

 また渋谷は自社の雑誌で活躍する写真家、ヒロミックス、長島、蜷川について次のように語っている。同社から写真集『girls blue』(96年)と『光』(97年)を出したヒロミックスには「いまひたすら走っている状態で、このまま走り続けて大丈夫なのか」と配慮を見せ、その才能に瞠目した長島が95年に渡米していたことを惜しみつつ「これから相当なことをやってくれる」のではと期待を寄せた。そして蜷川の、自身のスタイルを打ち出すために「高いハードルを自覚的に越え」ている努力を高く評価している。わずか3年ほど前に登場した新しい女性写真家たちは、すでにそれぞれの道を歩み出していたのだった。

「クラカメ」ブーム

 端的にいえば本誌で女性写真家たちの登場が少ないのは、読者がそれを求めなかったからである。カメラ雑誌の主たる購買層である中高年男性にとって、リアリティーや共感性で成り立つ「女の子写真」は縁遠い。そんな読者層から大きな支持を集めたのはメカニズム記事、ことにライカやコンタックスを中心とする、クラシックカメラやレンズについての企画だった。

 その背景には、マイクロチップによってカメラのメカニズムが極度まで自動化され、製品として高いレベルで均一性を保つようになったことがある。それは日本のカメラ業界の大きな成果だが、機械的な個性や面白みなど、趣味性の喪失でもあった。

 だがクラシックカメラにはそれぞれユニークなアイデアと機械的造形性があり、個体によっても味わいが違う。そこにモノづくりの面白さや、写真に対する作り手の思想さえ見いだすことができたのだ。しかもその面白さはプロやアマチュア、あるいは世代や職業を超えて共有されうるものだった。

 クラシックカメラの人気は、まず91年4月号の「ライカ特集」あたりから顕著になり、92年にはブームとしてはっきり認識された。94年には本誌編集部による『広告にみる国産カメラの歴史』が、92~93年には増刊号『カメラの系譜郷愁のアンティークカメラ』が出され、後者は発売1カ月でほぼ完売した。さらに97年には、史料性の高い酒井修一の『ライカとその時代』も本誌編集部の手によって刊行されている。

 この間、連載も年を追うごとに充実し、96年には「現代クラカメ最前線」というコーナーにまとめられている。そのうち長期連載となったのが「大竹省二のレンズ観相学」(95~2008年)、や、美術家の赤瀬川原平(96~2015年)の「こんなカメラに触りたい」などである。

 さらに、深みのあるクラシックカメラ論を積極的に展開しつつ、優れた実作を提供したのは田中長徳、田村彰、飯田鉄、築地仁、赤城耕一などの写真家たちだった。写真とカメラの機能をよく理解していた彼らの仕事は、クラシックカメラにとどまらず、銀塩カメラ全般についての新しい価値基準や歴史観をつくったといえる。

 古いカメラに対する愛着が語られる一方で、山田久美夫らによる新しい写真システムについてのリポートのボリュームも増えていった。新規格のAPSや、数十万画素程度ながら実用的なデジタルカメラが登場し、写真の見せ方もCD-ROM写真集とともにインターネットが活用され始めていたのだ。

 その変革は最初ゆっくりとしたものだったが、やがて本誌の在り方を左右するものへと成長していくのである。