特攻に出発する時に、充分な掩護も戦果確認もなかったのも同じです。「精神一到すれば何事か成らざらん」という精神論で大貫さんは押し切られましたが、佐々木さんもたった1機での特攻を求められました。
大貫さんと佐々木さんが同じだと書いていますが、じつは、多くの特攻隊員はみんな同じだったということです。佐々木さんの方が1944年の11月から12月、大貫さんは1945年の4月ですから、状況は大貫さんの方が悪化していますが、ごく初期を除けば、特攻の実際は悪化しながらも、とても似ているのです。
掩護機や戦果確認機を出す余裕はどんどんなくなり、出せたとしてもほんの数機、百機単位で波状攻撃して来るアメリカ軍機にはなんの意味もない編成でした。
そして、後半、『振武寮』に入れられる大貫さんと、9回も特攻を繰り返しフィリピンの山奥に逃げ込む佐々木さんの運命ははっきりと分かれます。
『振武寮』の倉澤清忠少佐の存在は凄まじいの一言です。戦後、復讐を恐れて80歳まで拳銃を持っていたという記述には唸りました。本人が自分のしたことの意味を知り、どんなに怯えていたのか分かります。
同時に、インタビューのあけすけな語りに、これまた唸ります。「12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ」を始めとした発言に衝撃を受けます。
この本は、大貫さんの「特攻隊員に選ばれて、不時着するまで」と「『振武寮』に入れられた顛末とそこでの生活」、そして、もう一人の著者、渡辺考さんの丁寧な「特攻隊の歴史と実態」の3つの大切な部分によって構成されています。
大貫さんは、「私は自分が特攻であるということは、周囲の親しい者を除いては誰にも語りませんでした」と書かれています。
じつは、佐々木さんもずっと語ってきませんでした。若い頃に一度、長いインタビューに答えた以外は、話して欲しいという依頼をずっと断ってきたのです。
けれど、ある時期、それはたぶん自分の寿命としての人生を意識し始めた時に、自分の歴史を語り始めました。
大貫さんは2012年に、佐々木さんは2015年にお亡くなりになりました。よくぞ言葉を残してくれたと思います。
大貫さんや佐々木さんの言葉をしっかりと受け止め、未来の人達に渡すことが、今を生きる日本人の責任のような気が僕はしています。(文/作家、演出家・鴻上尚史)