事態を重く見た中沢不二雄パ・リーグ会長が現地入りして検証を行った結果、張本の一連の行動を「好ましいことではない」としながらも、二塁上や本塁上のクロスプレーが体当たりになるケースが多いことを理由に「体当たり自体には問題ない」と裁定。バットを持ってスペンサーに詰め寄った行為も、12、3歩前から歩幅が小さくなったことから、「暴力的行為というより、威嚇行為」と解釈し、「プレー以外の問題なので、直接連盟からは処置しない」と、水原監督に戒告的要望書が手渡されるにとどまった。
コリジョンルールが導入され、グラウンド上の粗暴な行為も厳しく処分される昨今ではあり得ない大甘裁定。また、張本は23年間の現役生活で退場処分を受けたことが一度もない。暴れん坊に対しておおらかな時代だったとしか言いようがない。
翌65年4月11日の東京戦(後楽園)、今度は二塁上での走塁トラブルをめぐって騒動が起きた。
1対1の7回2死、この日2打数2安打と当たっている張本に対し、坂井勝二のカウント2-2からの5球目が背中を直撃した。坂井は通算143与死球(歴代3位)と死球の多い投手だった。
張本はバットをグラウンドに叩きつけ、怒りをあらわにしたが、とりあえず一塁に向かった。だが、このまま無事に済むとは思えなかった。
はたして、次打者・坂崎一彦の2球目。二盗を試みた張本は、タイミング的にセーフだったにもかかわらず、カバーに入ったショート・山崎裕之に対し、足を上げて突っ込む危険なスライディングを見せた。同年、当時では破格の契約金5千万円で入団した期待の高卒ルーキー・山崎は、ソックスを2枚履いていたことが幸いしたが、一歩間違えば、スパイクの刃で左足首を傷つけられていてもおかしくなかった。
騒動が起きたのは直後だった。二塁ベースをオーバーランする形でアウトになった張本がベンチに戻る途中、捕手・醍醐猛夫が『わざとやったな。汚いスライディングはやめろ』と注意すると、「それなら坂井もオレにわざとぶつけたのか」と言い返し、飛びかかった。
本塁付近に両軍ナインが集まり、あわや大乱闘の場面となったが、張本は坂崎に組み止められ、その後、両軍首脳が間に入って、ようやくことを収めた。
ちなみに翌12日、同球場で行われた中日vs巨人でも、柿本実の長嶋茂雄への危険球がきっかけで両軍入り乱れての大乱闘となり、巨人の金田正一、柳田利夫の2選手が退場処分に。後楽園は2日連続で修羅場と化した。