「その当時は今と違い、相手選手にケガをさせろとの指示はどこの大学でも出ていました。けれど日大は平気で相手選手を殴ったりする。私も選手時代にだいぶやられた。度が過ぎたために他チームからもう試合をやりたくないと言われ、所属リーグから追放されたことがあったのです」
学生リーグ誌を振り返ると、確かに日大は1970年に名門の東京六大学リーグから抜けて、一時期、新興大学で構成される関東大学リーグに移籍している。表向きの理由は新興校の技術向上への協力だったが、実際には東京六大学リーグを追い出されたのが真相だと言う。
篠竹監督の考えは、「アメフトは闘技で、技術論よりもケンカが強いほうが勝つ」。その教えを受け継いだのが篠竹氏の後任監督の内田前監督で、宮川選手に相手選手を「潰せ」と指示したとされる。日大は「意図的な乱暴行為を教えることはなく、指導者の指導と選手との受け取り方に乖離があった」とするが、それはあり得ないと話す。
「『潰せ』や『壊せ』などの言葉は、我々の間では反則をしてでもいいからとにかく相手に怪我をさせろという意味で使います。パスを出すクォーターバックは試合の要ですが、一方で自分からは当たりに行かないポジションなのでタックルされると弱い。思い切ってぶつかってプレーを続行できないようにすれば、試合に勝てると思ったのでしょう」
吉田氏はそもそもこの問題がここまでこじれた原因は、日大と関学大のプレーに対する考え方が180度違うとことが関係していると指摘する。
「関学大の黄金時代を築いた武田建元監督は、アメリカ留学時代に学んだ最先端のコーチング理論を持ち込んだ人物。一口にいえば技術論を大切にするやり方。初めから精神論重視の日大とは全く相いれない部分があるのです」
今回の問題を巡っては、当事者の日大が批判の声が大きくなった23日まで会見を開かなかったことも問われている。元教職員の一人はこう語る。
「日大のガバナンスはトップの田中英壽理事長の独裁体制で、その下にいるナンバー2の内田常務理事が日大グループ12万人の人事権を握っています。その本人が関わる問題とあっては、とても一般職員が勝手に動けるような雰囲気ではありません」
(桐島瞬/AERA dot. 編集部)