1964(昭39)年は日本で「初めてアジアで夏季オリンピックが開かれた年」として記憶されている。10月10日に行われた開会式のテレビ中継の瞬間最高視聴率は80パーセントを越える驚異的なものだった。
そんな中、第二回作品は「赤穂浪士」が放送された。原作は大佛次郎の同名の新聞小説で、後に「画期的な『忠臣蔵』」と評価された「赤穂浪士」だ。
従来の「忠臣蔵」では主君の仇をとる赤穂四十七人を「義士」として捉えられていたが、大佛の「赤穂浪士」では幕藩体制や時代風潮に抗う「浪士」として捉えていること、浪人堀田隼人や怪盗蜘蛛の陣十郎といった第三者的視点で物語が構成されている点が「画期的」と評価された主な理由だ。
また、中国大陸の不穏な政情を背景に軍部が暴走し始めようとしていた執筆時の1929年前後の「暗い谷間の時代」に対する大佛の怒りと、「理不尽な幕府に物申す」という大石の権力に対する抗議を重ね合わせているところが、この小説の面白さだともいわれた。
「赤穂浪士」は、「困ったら義経・秀吉・内蔵助」という川柳のとおり、圧倒的な人気を博した。「花の生涯」の平均視聴率20.2パーセントに対して31.9パーセントと大幅にアップしたのだ。
その一番の勝因はキャスティングの豪華さで、「花の生涯」同様、大物起用の戦略によって大石内蔵助には長谷川一夫が抜擢された。銀幕の大スターだった長谷川がテレビに出る、ということが大きな話題になったのだ。
長谷川の次女で女優の稀世さんは当時の父親の様子を次のように振り返る。
「父がテレビの『赤穂浪士』に出演していたころ私はまだ女学生だったので芸能界のことはあまり知らなかったのですが、帰宅がいつも深夜だったので健康面が大丈夫だろうかと母と心配したのを覚えています」
現役の大スターとはいえ出演当時の長谷川は56歳、平均寿命が65歳の時代だから「老人」といってもいい年齢で、稀世さんの心配は当然だっただろう。
稀世さんは続ける。