もちろん、家も家族も失ってしまい、生活を守ることができなかった人もいただろう。しかしそれでも、生きている以上、“この世界の片隅に”きっと必ずどこか自分の居場所がある。
終戦後も物語はもう少しだけ続く。1946年(昭和21年)1月、すずの夫婦は広島を戦後初めて訪れる描写がある。そしてその帰りに、たまたま出会った原爆孤児の少女を呉に連れ帰り、養子として育てていくことを決意する。
この部分は、東京大空襲で戦災孤児となり親戚をたらい回しにされたあげく、落語家の3代目三遊亭金馬に引き取られ、後に初代林家三平の妻として、エッセイストとして活躍する海老名香葉子さんの体験談とも非常に重なるものがあった。
戦争でどんな悲惨な目に遭おうとも、生きている以上、この世界の片隅から自分の居場所が失われることはそうそうないのだ。だからこそ、「生き残ってよかった」という感情が第一に出てくるのではないか。
ただ、こうした感情は、世界情勢というマクロな見方をすれば、独善的な一面もある。日本はアジアを戦場にした側で、中国をはじめとする国々からすれば自分たちこそ「被害者」であるし、日本は「加害者」になる。
しかしながら、戦争を生き残り、この世界の居場所との闘いに「勝利」した人たちにとって、こうした「加害者」意識は極めて醸成しづらい。そして、この意識の流れは21世紀の現在まで連綿と続いている。
さらに、この世界の片隅に居場所があり続ける者同士、生き残ったもの同士という連帯意識が芽生える。だから「これからどうしよう」となる。ここが、「この世界の片隅に」で前面に描かれた部分だった。作中のリアルな描写からみても、日本全体に通底していた考え方だったのではないか。さらには、こうした感情が日本の戦後復興の第一歩となった。だからこそ、「加害者意識」が養われる余地がほとんどなかったともいえる。
最近、映画「君の名は。」がアジアでもヒットしたというニュースを目にするが、「この世界の片隅に」こそ、積極的に海外輸出すべき作品ではないだろうか。特に、中国では「なぜ日本人は加害者意識がないのだ」と疑問に思う人も少なくない。「この世界の片隅に」は、こうした問いに明快なアンサーを出してくれている。既に海外上映の取り組みは進んでいるようで、費用もクラウドファンディングで集められた。この作品が橋渡しとなってくれればと願うばかりだ。(ライター・河嶌太郎)