第2次世界大戦中に製造された旧日本陸軍の三式戦闘機「飛燕(ひえん)」が、当時開発を担った川崎航空機工業に連なる総合重機メーカー、川崎重工業の有志によって修復された。国内にただ一つ残っていた機体を、飛燕を愛する人たちの情熱と技術力をもってして、細かい部品や色合いまで忠実に再現した。いったいどのようなドラマがあったのだろうか。
修復された機体は、全長9.2メートル、全幅12メートル。神戸市の神戸ポートターミナル・大ホールで開催中の「川崎重工創立120周年記念展」で、2016年11月3日まで展示される。
「欠損していたボルトナット600個も、当時の図面で再現した。(外側からは)全然見えないけれど、あちこちに取り付けられています。現代まで連綿とつながるカワサキの技術屋魂と情熱を少しでも感じていただきたい」
機体が報道陣に公開された2016年10月13日、プロジェクトマネジャーを務めた同社の航空宇宙カンパニーフェロー(役員)、野久徹さん(60)は、万感の思いで機体を見つめた。設計者の土井武夫さん(1904~1996)とも生前親交があり、「私はよく怒られたけれど、飛燕を修復して、土井のじいさんもちょっとは喜んでくれているかな、と思うとうれしい気がする」とほほ笑む。
川崎重工業によると、飛燕は戦時中、I型とII型を合わせて約3千機が製造された。当時としては唯一、国産の液冷エンジンを載せた戦闘機で、高速性と旋回性を併せ持っていた。その流麗なスタイルから「飛燕」と名付けられたという。今回修復されたのはII型で、最高時速610キロを誇ったといわれている。本土の防衛に配備されたが、生産はわずか99機にとどまった。
なぜ復元するに至ったのか。始まりは3年前、ゼロ戦の設計者、堀越二郎をモデルにしたジブリ映画「風立ちぬ」が公開されるなどして、ゼロ戦ブームが起こった時のことだ。川崎重工業の岐阜工場で働くエンジニアたちの中で「うちには土井の飛燕があるやろ」という声が上がった。何かできないか、と考えていた矢先に、飛燕を所有する日本航空協会から修復を持ちかけられたのだ。
同社の創立120周年記念事業として修復することが決まり、2015年9月、岐阜工場で飛行機の設計に携わっていた冨田光さん(51)=現在は航空宇宙カンパニー営業本部海自固定翼機部担当部長=をチームリーダーとして修復プロジェクトがスタート。飛燕は、約30年にわたり展示されていた知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)から岐阜工場に運び込まれた。
修復作業には、同社の岐阜、明石工場の有志約30人が、終業後や休みを利用してボランティアであたった。該当の機体は、経済産業省の近代化産業遺産でもある。戦後、国内各地を転々とするうちに迷彩柄となってしまった塗装を丁寧にはがし、日本航空協会の監修の下、部品の一つ一つがオリジナルかどうかを確認していった。
「形状だけでなく、本物にしたい」という情熱から、同系列の五式戦闘機を修復中の英国空軍博物館や、飛燕と同じ陸軍機である一式双発高等練習機が展示されている三沢航空科学館(青森県三沢市)、資料が残されていた個人宅など国内外を回った。詳細な調査を重ね、その結果を修復に生かしていったのだ。
例えば計器盤。岐阜工場に搬入された時は、もともと設置されていた計器はほとんど失われ、米軍の計器が取り付けられていた。このため、愛好家への協力依頼、オークションなど、あの手この手で実物を収集。それでも集められなかった約2割は正確なレプリカを製作した。
また、エンジンはほぼ完全な状態で残っていたが、要である過給機(エンジンに圧縮した空気を送り、出力を上げる加圧装置)はなくなっており、設計図は戦後に焼却されて残っていなかった。だが、写真などの資料や実物部品をかき集めて3次元データを作成し、何度も試作して完成させた。実物からかけ離れていた形をしていたノーズ(機首)部分も、3次元データを駆使して復元した。
過給機と同様に、戦後失われ、複製品が取り付けられていたコックピットの風防ガラスやアクリルパネルも作り直して交換。写真すらほとんど残っていなかった水と滑油の冷却器も、一から設計して製作した。オリジナルの質感を大事にしようと、塗り直さず、かつて塗装されていたプロペラやノーズ、日の丸部分にはシールを張り付けた。それらも詳細に色合わせしたという。
チームリーダーの冨田さんは「もともとは一マニアたちが始めた作業だったが、プロジェクトが進むにつれて、社内でも盛り上がっていった。修復できてやっと肩の荷が下りた。細かいところも見てほしい」とほっとしたように話す。
長い歴史を持つ“カワサキ”と国内外の愛好家たちの総力をもって、現代にその姿を現した飛燕。設計者の土井さんは探求心が旺盛で、90歳になっても英語の論文を読んでいたという。後進たちが作り上げた雄姿は、どのように映っているのだろうか。(ライター・南文枝)