戦後になって、木箱や木樽不足に悩む声があげられ始めた結果、容器の貸出料をとることが策定された。出荷された魚とともに運ばれてきた木箱や木樽が、市場の外で魚の容器として使われる際は貸出料を取り、再び市場に戻って来た際には、貸出料のうちのいくらかが使用者に戻される。戻って来た木箱は、再び鉄道に載せられ各港へ。木箱販売をしながらリサイクル業も営む時代が、しばらく続いた。
その後昭和40年代に入り、発泡スチロール容器が登場。木箱は発泡に、木樽はプラスチックの樽に置き換わり、リサイクル業の側面は幕を閉じた。
発泡が登場した当初は、築地に働く人たちに向けて、発泡の取り扱いを教える必要があったという。林さんは当時を振り返り、こんなエピソードを話してくれた。木箱の時代には、手カギ(木製の柄の先に、鉄製の鎌のような形状の鈎[かぎ]がついたもの)にとにかくなんでも引っ掛けて運んでいたため、発泡も同じ要領で運ぶ人が多かったため、穴の空いた発泡から水がこぼれ落ちるなんてことが、あちこちであったそうだ。また、発泡の奥まで突き刺さった手カギが、中の魚を傷つけてしまうなんて事も続出したという。
現在の発泡の姿はどうなっているのだろうか? 今度は東京魚類容器に話を聞いた。
東京魚類容器の事務所では、社長の原周作さんが、パワーポイントで作成したプレゼンテーション資料をホワイトボードに投影しながら、東京魚類容器の近年の歩みを説明してくれた。また、会社のホームページには、「包装資材を通じて、日本の食文化発展に貢献し続ける」とする経営理念や、発泡の詳細な規格表が掲載されている。社長のプレゼンテーションとホームページを見れば、もう取材は不要だとすら感じられてくるほど、明瞭なメッセージとコンセプトが用意されている会社だ。
東京魚類容器の事務所は1階が倉庫となっている。