演技論としては、斉藤由貴小泉今日子のどちらが正しいかは一概にいえません。小泉今日子自身、2000年に相米慎二監督の『風花』に出演し、「本当の自分」を役づくりに生かす術を学んでもいます(助川幸逸郎「小泉今日子が女優として成功したのは元夫のおかげ?」dot.<ドット> 朝日新聞出版参照)。

 ただし、すでにバブルの好況が始まっていた1986年の空気には、斉藤由貴の発言のほうがなじんでいました。

 この時期、ごく平凡な女子大生が数十万円のアクセサリーを贈られることが珍しくない世の中になっていました。セレブ並みのあつかいを受けることで、多くの女性が「私はセレブ級に凄いのだ」という「勘ちがい」をしていました。そうした人びとは「自分は特別何もしないのに凄いのだから、努力して何かのスキルを身につける必要はない」と考えはじめます。そのため、「『ありのままの自分』を称賛されることこそがすばらしい」という雰囲気が世間に蔓延しました。たとえば、「an・an」1987年10月16日号には、次のような言葉が見えます。

<コツコツ勉強する、というよりは、自分の興味ある世界に一時期、どっぷりつかってみる。(20代で有名になった女性は)みんなこのプロセスを経ているんです。で、十分に充電して光っていれば、自然と誰かがポンと背中を押してジャンプさせてくれるわけで、これから、を目ざす人は、とりあえず自分の好きな世界にどっぷり浸りきること。ここから始めてみるといんじゃないかな>

 このコメントは、当時「月刊カドカワ」の編集長だった見城徹のものです。「コツコツ勉強」しなくても「十分に充電して光っていれば(=『ありのままの自分』を充実させていれば)、自然と誰かがポンと背中を押してジャンプさせてくれる」――現代ではほとんど信じる人がいない「夢物語」ですが、バブルの頃には本気でそう思っている人たちがいました。

 役にふさわしい資質がもともとあってこそ、素晴らしい演技ができる――この「斉藤由貴の持論」は、「『ありのままの自分』と役柄が一致するのが肝心」とも言いかえられます。彼女がこんな風に考えるようになった理由のいくぶんかは、「ありのまま自分」信仰の影響があるかもしれません。

 斉藤由貴はインタビューで「感性」という単語を口にしています。これはバブル当時、「ありのままの自分」を語るときのキーワードでした。相手の「ありのままの自分」をほめる際には、「いい感性してるね」と声をかけます。周囲に「ありのままの自分」を認めさせたい場合には、「自分の感性に忠実でありたい」というのが殺し文句でした。

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