批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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新型コロナウイルスによる混乱が止まらない。流行は世界に広がり欧米も巻き込まれた。日本でも学校は休校になり、イベントは軒並み中止に追い込まれている。株価は急落し世界同時不況もささやかれている。
筆者は感染症の専門家ではない。おまけに感染拡大は現在進行中で、なにを書いても数日で古くなる。だから抽象的なことしか書けないが、今回の騒動は筆者には、感染症への恐怖だけでなくグローバリズムへの恐怖を炙(あぶ)り出したもののように思われる。
新型ウイルスによる感染症が中国・武漢で報告されたのは昨年末。流行が始まったのは1月に入ってからで、武漢が封鎖されたのは同23日。当初こそウイルスへの恐怖は中国人と結びつけられていたが、感染が拡大するにつれ対象も拡大した。武漢封鎖から1カ月半、いまや世界中で響き渡っているのは、国境封鎖、私権の制限、移動や流通の統制を求める声である。しかもその声は草の根の市民から出ているのだ。
新型ウイルスの性格は、初期はよくわかっていなかった。だから都市封鎖や国境封鎖が有効だと信じられていた。無発症の感染者が多く各国で市中感染が広がったいま、その対策は期待されるほど有効でないことが知られている。にもかかわらず世界中で外国人の入国禁止や長期検疫が拡大している。むろん一応の医学的根拠が語られてはいる。けれどもそれは明らかに、よそ者は怖い、入ってくるなという原始的感情にも支えられている。その感情をポピュリストが政治的に利用している。
グローバリズムは経済的に不可避な変化である。けれども人間にかなりの無理をさせる変化でもある。人間はもともと怖がりで面倒くさがりだ。異物を喜んで受け入れる人間は少数派である。それでもこの数十年、各国は無理をしてグローバル化につきあってきた。その矛盾が一気に噴出したといえるかもしれない。その点ではブレグジット(英EU離脱)やトランプ現象にも通じるものがある。
21世紀は観光の世紀のはずだった。観光客はいまや危険の代名詞だ。この騒動が終わったあと、もういちど観光の世紀に戻れるのだろうか。
※AERA 2020年3月23日号