早く死にたいという欲望を持っている人はそういません。大半は「死にたくない」という欲望です。そんな欲望の人は逆に早死にします。長生きしたければ、「早く死にたい」とお経のように唱(とな)えればいいということです。僕もセトウチさんみたいに「早く死にたい」という欲望まで達していませんが、「面倒臭い」という境地にやっとたどりつきました。ここから先の「死にたい」という欲望を悟性化するまでには、まだ83歳は鼻たれ小僧で若いということですよね。

 城崎温泉に行った時はセトウチさんは83歳です。この頃は「死にたい」なんて言葉は一度も聞いたことはなかったです。やはり100を目の前にしないと、その境地には達せないということですかね。僕みたいに、もう描きたくない、面倒臭い程度ではまだまだ悟りは遠いでしょうね。

 日本中というか世界中がコロナウイルス・パニックになっているのも「死にたくない」論理です。人類はまだ悟りにはほど遠いということです。人間は必ず死にます。人間が生まれてくる目的は死ぬことからどう避けるか、だと思いますが、真の目的は、「死ぬぞォ!」という心構えですかね。これじゃ、まるで武士道ですね。でも昔の人は武士道を生きることが悟りだったのかも知れません。お坊さんもそれに近いですよね。ホナ、仮死状態になって寝ます。オヤスミ、サイナラ。

■瀬戸内寂聴「満九十八…はねまわった昔々がなつかしい」

 ヨコオさん

 今年の春は早くて暖かくて、寂庵の桜も早くから咲き揃(そろ)い満開です。あらゆる行事を新型コロナにかこつけて休みにしたので、この春は、寂庵に人の訪れはなく、ひっそり閑として、終日、まことに静寂です。今年は椿(つばき)が特に勢いよく、庭は例年になく鮮烈です。

 もしかしたら極楽の庭って、こんなに静寂で淋しく、気高いのではないかと想像します。あるいは、私はもう極楽に来ているのではないかと、陽当(ひあ)たりのいい縁側で、自分の頬をつねってみました。結構痛かったので、まだコロナ悪魔の跳梁(ちょうりょう)するこの世に生きていることがわかりました。

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