「おや?」と思って立ち止まる。そしてはじまる旅の迷路――。バックパッカーの神様とも呼ばれる、旅行作家・下川裕治氏が、世界を歩き、食べ、見て、乗って悩む謎解き連載「旅をせんとや生まれけむ」。第24回は「コロナ以前の武漢」について。
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昨年の10月末、武漢にいた。新型コロナウイルスに感染した患者が確認されたのは12月初旬。中国政府は、11月下旬にはヒトからヒトへの感染が起こっていたと発表している。その1カ月前、僕は武漢の街を歩いていた。
そのときの武漢は平和だった。
武漢から重慶まで、長江を遡る船に乗ろうとしていた。30年前、上海から長江の起点である宜賓まで、3000キロ近い川筋を船で遡った。庶民が乗る定期船の旅で9日間もかかった。そのルートを再び船で……と目論んでいた。
長江に面した武漢港で船を探した。「もう船はない。列車だけです」。そんな言葉が返ってきた。
「武漢もだめか……」
柔らかな秋の日射しに包まれた長江の土手で呟いていた。上海から武漢までの船もなくなっていて、僕は上海から列車で武漢に辿り着いていた。
武漢は歴史の街だ。三国志の舞台でもある。30年前に訪ねたときは、武漢港周辺が中心地だった。長江に沿って重厚な石づくりの建物が並ぶ。そのなかには、東京銀行(現在の三菱UFJ銀行)の前身である旧横浜正金銀行の建物もあった。
しかしその後、中国は爆発的な経済発展を遂げる。天安門事件も乗り切り、インフラも急速に整っていった。農村から都市への人口移動が起き、中国の都市は巨大化していく。武漢も1100万人の人口を抱える大都市になった。街の中心は移り、高層ビルが建ち並ぶ。その経済を支えるものはスピードだった。
長江を遡る船がなくなり、列車やバスに映っていった最大の理由はスピードだった。都市移動の速度があがり、定期船の存在感は年を追って薄れていった。
列車に乗るために地下鉄に乗り、武漢駅に向かった。この駅は新幹線専用駅である。中国版新幹線は、中国鉄路高速と呼ばれる。そのスピードで2種類にわけることが多い。ひとつは大都市を結ぶ高鉄で時速300キロ台を出す。もうひとつは中都市を結ぶ動車組と呼ばれる列車群で、時速は200キロほど。日本でいえば特急感覚だろうか。新幹線型の車両を使っているので、一見、新幹線のように映るが。この両者が武漢駅を使っていた。