いつの時代も「アイドル」とは世間が選んで存在させるものですが、一方でその人自身の気質も大きな要素であり、「自分はアイドルだ」という自覚と無自覚を漂いながら、いつ突然消えてなくなるか分からない華やきらめきを武器に、危うく儚く不安定に生きる様が最大の魅力です。しかし「手越祐也」は、「俺がアイドルじゃなくて誰がアイドルなの?」の文脈でアイドル道を邁進してきた男。日本人特有の謙虚さなんて無粋なことはブン投げて、ただひたすら己の「アイドル力」を最大限に発揮するべく日々生きている男です。コンサートなどで歌う姿を観る度に、その徹底したプロフェッショナリズムと天井知らずの自意識にいろいろな意味で悶絶します。プロフェッショナルであるということは、もしかすると彼は「生まれながらのアイドル」ではないのかもしれません。それでも「手越祐也になるために生まれてきた俺」という「設定」を、まるで「天から受けた宿命」レベルにまで昇華させ、あの狂気に満ちた輝きを放ち続けているのですから、そりゃ制御不能に陥って当然と言えるでしょう。それを過度に道徳や常識で縛り付けるのは野暮であると、周囲も世間もある程度は理解していたのだと思います。そして今、「手越祐也」という類希なプロダクトに対し、私たちは初めて葛藤を抱いている。

 今や「手越祐也の性(さが)」は、「アイドルってやっぱゲスいなぁ」と実感できる数少ない様式美なので、私としては、彼がこの窮地から戻ってきた時の様を、どう演出するかを見届けたい気持ちです。ふてくされていても、反省して号泣でも、涼しい顔でも、彼ならきっと「画」になるはず。

週刊朝日  2020年6月19日号

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