姜尚中(カン・サンジュン)/東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史
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(c)朝日新聞社
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 政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。

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 55年体制成立以後の戦後政治史を顧みる時、自民党第2代総裁に選ばれ、第55代内閣総理大臣に就任した石橋湛山が、病を理由に退陣しなかったら、その後の日本の政治の軌跡は大きく変わっていたかもしれません。その湛山は2カ月の絶対安静を理由に潔く退陣を表明し、自らの政治的良心に従って決断を下しました。その潔さに野党の社会党の浅沼稲次郎書記長が政治家はかくありたいと語ったというエピソードも残されています。

 後任の首相に就任したのは、安倍首相の祖父、岸信介元首相です。歴史の因果の糸はどこかでつながっているのでしょうか、今度はその安倍首相に健康不安説が持ち上がり、一時期は第1次安倍内閣の轍を踏む退陣がささやかれ、その出処進退が注目されていました。

 病の身で未曽有の困難に立ち向かう一国のリーダーに鞭打つのは不謹慎だという声があれば、戦後最大の国難に対処するには耐えられない健康状態ならば、速やかに出処進退を明らかにすべきであるという意見もあるなかでの8月28日の記者会見。今後のコロナ対策に加えて自分の病状の説明をして続投するかとも見られていましたが、突然の辞意表明で与党内でも驚きの声が上がりました。

 湛山が自らの出処進退を明らかにした時代は、まさしく保守合同以後の戦後政治の軌道の転轍にかかわるほどの決定的に重要な過渡期でした。そしていま、ドイツのメルケル首相がいみじくも吐露したように、戦後史最大の危機に直面しているといっても過言ではありません。コロナ禍の収束と経済の再建に失敗すれば、「第二の敗戦」にも匹敵するような被害を被ることにもなりかねないからです。

 そのような破局的な危機になりかねない瀬戸際で、万が一にでも政治家個人のレガシー作りが優先されたら、最大の犠牲となるのは国民になりかねないところでした。湛山が潔く退陣の道を選んだのも国民のためにという判断を優先させたからでしょう。安倍首相もまた、湛山と同じように「国民の負託に自信を持って応えられない」と出処進退の決断を下したことで、それがレガシーとして後々、語り継がれていくかもしれません。

姜尚中(カン・サンジュン)/1950年本市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了後、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授などを経て、現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍

AERA 2020年9月7日号