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 合流新党がついに結成へ……小沢一郎氏「最後の戦い」とは? 民主党政権はなぜ失敗したのか、その分析と反省。そして3度目の政権交代を目指す理由を激白した13時間を収録した書籍『職業政治家 小沢一郎』(佐藤章著)について、「一冊の本」10月号に掲載される、政治学者・山口二郎氏の寄稿文を特別に掲載する。

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 本書は、小沢一郎という政治家を通して見た日本政治の30年史である。小沢は、今でもプラス、マイナスの両側から強い反応を誘発する政治家である。それゆえ、小沢を通して政治の展開を描くことには意味がある。個人的な感慨を述べさせてもらえば、私が同時代の政治に関する批評、分析を始めたのは、小沢が自民党幹事長として大きな影響力を持ち始めた1990年前後であり、私にとっても大きな影響を受けた政治家である。本書を読むことは、自分の半生を振り返り、どこで何を失敗したかを考える作業ともなった。

 小沢は統治システムのデザイナーであった。彼の主題は統治システムの改革である。官僚支配を打破して、政策決定、とりわけ予算編成を政治主導で行うことが小沢の宿願であった。いわば、その問題意識は1993年5月に出版された『日本改造計画』(講談社)で明快に打ち出された。この点は、私自身も同じ時期に出した本で同じ主張を展開していて、驚いたことがある。著者の佐藤章は、小沢の制度デザイナーとしての冷徹さと合理性を強調する。これは、小沢を理解するために不可欠な視点である。

 政治主導の理念は民主党政権の柱とされ、国家戦略局という組織がその任に当たると思われていた。これが不発に終わった経緯を、著者は描いている。のちに、民主党を二分して争うことになる菅直人も小沢と同様の問題意識を持っていた。菅は、鳩山内閣の国家戦略担当大臣に就任した。予算配分こそ国家権力の行使そのものだが、首相、菅、小沢の間に食い違いがあった。菅は、国家戦略大臣が内政全般の総合調整を行えば二人目の首相が出現する事態となると、慎重な姿勢であった。膨大なマニフェストの項目を予算に落とし込むには政治的な調整が必要だが、内閣の中に当初構想したような権力核を作ることはできなかった。その結果、小沢が幹事長としてそのような調整機能を担い、幹事長室が事実上の国家戦略局となったというのが佐藤の分析である。これは、実に興味深い指摘である。

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