もちろん、男たちは納得がいかないだろう。パートナーの幸せを願うのが、夫婦というものではないのか。パートナーが苦痛に思うようなことを、なぜするのかと。

 これは、男女で「愛されている実感」の仕組みが違うことから来る、悲劇だ。夫にとって妻が自分を愛してくれていると感じるのは、妻が「あなたってすごいわね」「あなたが夫で誇らしいわ」などと褒めてくれるときである。なぜなら、男はいくつになっても褒められたい生き物だから。5歳でも、14歳でも、40歳でも、65歳でも、男は他者から「すごいね」と言われれば有頂天になる。棺桶に入る日まで、その渇望は続く。

 一方、妻にとって夫が自分を愛してくれていると感じるのは、夫が自分だけのために、不本意を我慢して、彼にとって明らかに有意義ではない時間を使ってくれているときだ。甘いもの嫌いの夫がケーキを一緒に食べに行ってくれた。寒がりの夫が、雪の中長時間並んで話題のスイーツを買ってきてくれた。夫が1ミリも興味のない韓流ドラマを、私につきあって一日中一緒に見てくれた。内容のない非建設的なおしゃべりや、夕食時のエンドレスに続く愚痴に、辛抱強く付き合ってくれた。彼にとっては、なんのメリットもないのに!

 妻は、夫が自分だけのために、身を削って「コスト」を払ってくれたことを愛だと感じる。だから、ささやかな出費による家事代行や、ワンクリック通販のスイーツお取り寄せでは、愛を感じない。夫が身を削るような「コスト」を払っていないからである。夫が心から「面倒だな……」と思うことを、他ならぬ妻である私のためにやってくれている……という事実が大事なのだ。

 妻は夫に損なってほしい。自分と同等に大事なものを失い、痛みを感じてほしい。相応のコストを払ってほしい。それが「共感」の正体である。スマホを眺めながらの相づちを、妻たちは共感と呼ばないのだ。

◎稲田豊史(いなだ・とよし)
1974年、愛知県生まれ。ライター、コラムニスト、編集者。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年に独立。著書に『「こち亀」社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS)、『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)がある。トークユニット「団地団」メンバー。