三浦:実際にはフォトグラファーの方がよりきつい現場を見ていると思うのですけど、フォトグラファーの方がライターに比べてPTSDになりにくいというというのを、米国留学中の授業で聞かされたことがあるんです。ライターという仕事は、それが聞き書きであれ、ルポルタージュであれ、現実を一度自分の中に取り込んで、それを咀嚼して再構築し、文字という抽象的な「道具」を使って相手に伝達しなければいけないから。それで『エンド・オブ・ライフ』を読み終えた時に「ああ、読んでよかったな」と思った。でも、すごく正直に言うと……、いいですか?

佐々:いいですよ、言ってください(笑)。

三浦:実は僕、『エンド・オブ・ライフ』を読んで、「佐々さん、これから本書けるのかな?」と思っちゃったんですよね。

佐々:確かに出版した後は「出がらし」になりますね。腑抜けの空っぽです。

三浦:ぶっちゃけで言っちゃうとね。家族の死というのはたぶん誰にとっても最も近く、最も大きい「死」だと思うんですよね。それを書いてしまうということは、それ以上の「死」の大きさを正しく計れなくなるんじゃないかとも思うんですよね。「死」というテーマに今後も向き合おうとしても、『エンド・オブ・ライフ』をなかなか超えることができないんじゃないかと。「死」という素材を自身の中に取り込むときに、自分の身内の「死」を超えられないのではないか、と。

佐々:母の延命をするか否か命の選択を迫られた日から、ずっと母が執筆活動の大きな動機でしたが、まさにその人を喪う話ですからね。三浦さん、鋭いですね。

三浦:僕も書き手なんで(笑)。『エンド・オブ・ライフ』は「つらいな、つらいな」と読みながら、最後の方はもう「ああ、佐々さんもつらいなぁ」と思って読んでいました。

佐々:そんな風に読まれていたとは(笑)。母が執筆の動機になっていた以上、この本は必然でしたよね。でも本作に限らず、本を出すたびに「これを超えるものは書けないんじゃないか」と思ってきました。自分がどんな果実を手に入れられるかは、自分の中ではまったく計算ができない。外見上は能動的に動いているんでしょうが、主観的には書くものが私をめがけて飛び込んでくる感じに近いのです。何を書くかに関しては運命論者というか、もう決まっているんじゃないかとすら思っています。『エンジェルフライト』も『紙つなげ!』も、「これを書こう」とか「これにします」という意思とは別のルートで生まれてくる。『エンド・オブ・ライフ』も、友人の病というまったく予期できない事態で突然物語が動き出しました。トルーマン・カポーティは『冷血』を書いた後に書けなくなりましたが、やっぱり何か書けなくなる……端境みたいなのがありますよね。次回作が生まれてくるかどうかも私にはわかりません。

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