哲学者 内田樹
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※写真はイメージ(gettyimages)
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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『若者よ マルクスを読もう』というシリーズ本を経済学者の石川康宏さんと共著で書いている。マルクスの代表的なテクストを「高校生にもわかるように」噛み砕いて解説するという企画である。『共産党宣言』から始まって10年かけてようやく『資本論』までいまたどりついた。感慨無量である。

 私たちの本を読んでマルクスを読み出した日本の中高生がどれくらいいるかわからないが、なぜかこの本が中国と韓国で翻訳された。

 韓国の場合は理解できる。日本の支配の後も朝鮮戦争と軍事独裁が続いた韓国ではいまも国家保安法によって「共産主義を賛美する行為」は処罰の対象となる。だからマルクス研究の蓄積がない。しかし、マルクスを知らなければ、近代欧米の社会科学を理解することは難しい。それらの学問は受容するにせよ、否定するにせよ、マルクス主義とどう対峙するかという問題意識に貫かれていたからだ。

 韓国がこれから自前の社会科学を打ち立てようと思うなら、マルクス研究は必須である。けれども韓国にはその学統がない。私の知人は大学院生のときにマルクスの本を所有していただけで懲役15年の刑を受けた。明治以来の分厚いマルクス学の蓄積がある日本とは研究環境が比較にならない。

 むろん韓国でもいまではマルクス研究が進んでいると思う。ただ、研究者たちにしても「高校生にもわかるように」マルクスの入門書を書くことに時間を割くほどの余裕はないだろう。しかたがないのでアウトソースした、というのがことの次第ではないかと思う。

 中国の場合は話が反対になる。我々の本は中国共産党中央紀律委員会の推薦図書に指定された。おそらく9200万人の党員の中に「マルクスを読んだことがない」という人が増えてきて、入門書が必要になったのだろう。しかし、まさか党公認知識人に「党員に読ませるから高校生にもわかる入門書」を書けというわけにもゆかない。やむなく翻訳に頼ることになったという事情ではないかと思う。

 何はともあれ、日本の高校生向けに書いた本が隣国民のお役に立つことになったのだとしたら、嬉しいかぎりである。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2021年3月22日号