当時、世界で一番のお金持ちの日本には、「貧しかった国」から無数の女性たちがやってきた。故郷の親に十分な仕送りができる、家が建てられるかもしれない、仕事は簡単なサービス業、歌のうまさを生かして歌手やダンサー、モデルにだってなれるだろう。そんな甘言で日本に連れてこられた女性たちの多くは、渡航費や仲介料などで多大な借金を背負わされ、パスポートを取り上げられ、狭い部屋に閉じ込められ、ホステスとして働かされ、売春を強要されることもふつうにあった。
東京では1986年に、人身売買の被害にあった外国人女性のシェルター「女性の家HELP」が設立されたが、HELPの福祉職員だった故・大島静子さんと、キャロリン・フランシスによる『HELPから見た日本』(朝日新聞社)には、当時の被害の状況が克明に記録されている。ダンサーになれると思い日本に来たら、その日からホステスとして働かされるが、給料をもらったことは一度もなく、稼ぎたいならと男性客との性交を強いられた女性。温泉街に連れていかれ、毎夜毎夜日本人男性客の相手を強いられるが、自分がどこにいるのか、どのようにしてここに来たのかも分からず、しまいに妊娠し、店を逃げ出して保護された女性。
昭和時代、日本人ビジネスマンが海外に行くとなれば買春はつきものだった。大手旅行業者が売り出すツアー商品などでも買春がパッケージになっているほど、それは当たり前のことだった。そして海外で買春した男性たちは、日本でも同じように「海外の女性たち」を気軽に「買える」文化をつくっていったのだ。2001年に青森県住宅供給公社の職員が、チリ人の女性に14億5900万円を貢ぐために公金を横領した事件が発覚したけれど、「アニータ」と呼ばれて大騒ぎになったあの女性も、日本にやってきたら、いきなりストリップ劇場で男性たちとの売春を強いられる生活が始まったことを、自伝で記していた。日本中、どこにでも、そんな女性たち、たくさんの「アニータ」が80年代に急激に増えていったのだ。
私に連絡をくれた女性が住む小さな温泉街にもたくさんのフィリピン人がいた。日本人の昼の生活とは決して交わらない彼女たちの生活。だけど、小さな女の子だった彼女が、猫を通して、一時触れあった時間を、なぜか彼女はずっと忘れられないという。その彼女はこんな話もしてくれた。