東尾修
東尾修
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 平成の怪物・松坂大輔投手が現役引退を発表した。西武ライオンズ入団当時、監督を務めていた東尾修氏が、当時を振り返る。

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前編/松坂大輔との「200勝のボール」の約束 東尾修「私の指導力不足かな」】より続く

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 テレビで見るのと、実際に生の動きで見るのは違う。99年1月の新人合同自主トレで、初めて大輔のキャッチボールを見た。私が見ていたのは、体の使い方。体幹の強さを改めて感じる一方で、左足首と左ひざの硬さが気になった。

 そこが硬いとマウンドの傾斜をクッションのように使えない。メジャーに行った時には、硬いマウンドで負担が増さなければいいなと感じていた。2009年夏、レッドソックスのキャンプ地、フォートマイヤーズでリハビリを行っていた大輔を激励した際に「WBCで股関節を痛めた」と聞かされ、その時に他の部分に故障の負担が出なければいいなと思ったが、その悪い予感はことごとく当たってしまった。

 しかし、入団1年目の高知での春季キャンプには参った。大輔フィーバーだ。私は外食する時は高知市内から脱出したよ。だって、どこの店に行っても、報道陣やファンがいるのだから。真面目な話に戻そう。私がそのキャンプ中に大輔に注文したのはただ一つ。「スライダーはいつでも投げられる。とにかくカーブを投げろ」と。ひじや肩を柔らかく使うためだった。技術的にアドバイスを送ったのも1度かな。99年3月11日の巨人戦、西京極で4回9安打8失点と打ち込まれた。その後の甲子園の室内練習場で、キャンプ中に気になった「インステップ」の矯正を行った。もっと本塁方向に向かって、真っすぐ足を踏み出すようにと。そして意識の問題として「捕手のミットの後ろに突き抜ける直球の感覚を持つように」と話したのを覚えている。

 デビュー戦を決めるのにも苦労したな。球団営業サイドからは4月4日の開幕第2戦、本拠地・西武ドームで、との要望があった。2カード目は東京ドーム。本拠地デビューでという考えはわかったが、私は却下した。開幕4戦目の4月7日の日本ハム戦に決めた。傾斜が急なマウンドが合っている。そう確信していた。

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