川瀬さんもその一人だ。亡くなるまで48年にわたり、交流が続いた。
「マンネリは嫌いましたね。いい意味で“ファンを裏切る”ことがテーマ。百恵で言うと、シングル13曲目の『横須賀ストーリー』が好例です。阿木燿子(作詞)・宇崎竜童(作曲)コンビを起用して、ロックビートの曲で、百恵のイメージを一新することに成功しています」
音楽制作の現場で付き合いのあったアーティストの加藤登紀子さんは、酒井さんとの印象的な出来事をこう話す。
「山口百恵さんの楽曲を依頼されたことがありました。当時、百恵さんは華やかな世界にいたので、明るい曲を作ったら、暗いジメッとした曲にしてほしかったと言われました。私はその言葉に驚いて、イメージができずに実現しませんでした。酒井さんは、百恵さんの陽の部分だけでなく、陰の部分も出したいと考えていたんじゃないかと今も思い出しますね」
酒井さんは88年に、加藤さんの米カーネギーホールでのコンサートのプロデュースをし、それがきっかけで加藤さんはフランスでのコンサートが実現、世界へ活動の場を広げることができた。ことあるごとに酒井さんには相談していたという。
「Jポップというのがあるから、登紀子さん、『Jシャンソン』というのをやりなさいと言われましたね。Jシャンソンは、酒井さんが私に残してくれたアーティストとしての指針みたいなものですね」(加藤さん)
酒井さんは加藤さんのコンサートには欠かさず訪れ、穏やかな表情で歌う姿を見ていたという。
「酒井さんはアイデアがひらめくと目がキラッと輝き、素敵な表情を見せるんです。そんな酒井さんは今もずっと近くにいて、私を見守ってくれていると感じます」
酒井さんは音楽を作るだけではなく、音楽の素晴らしさ、楽しさを伝えることにも力を入れていた。それが古賀政男音楽博物館で2001年から毎年開かれていた講座「酒井政利のJポップの歩み」である。