
プロジェクトは、なかなかOKが出なかった。「エンジニアはスケジュール的にむずかしいといっているぞ」と、担当のオーディオ部長は当初、懐疑的だった。
一方、面倒が起きると「いまは目立つな。しばらく隠れていろ」と、助言する上司もいた。
■「説得工学」の実践者
積極果敢なチャレンジをおもしろがって応援するのは、ソニーの風土だ。
小松は、“遊軍”といわれていた。「お前みたいなチョロチョロするヤツも大事なんだよな」と、上司からいわれた。
ソニーの創業者の一人、井深大は、「説得工学」を提唱した。彼の造語である。「自分がいいものに気がついたと思ったら、納得するまでやって、上司も納得させなければいけない」というのだ。プロジェクトも同じだ。小松は、「説得工学」の優れた実践者である。
ソニーとイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・シティの実証実験は、1年以上にわたって続いている。「新規事業なので、いろいろとトライアンドエラーもありまして」と、小松はいう。
ウェブ上の3次元の仮想空間にマンチェスター・シティのホームグラウンド「エティハド・スタジアム」を構築し、そこに世界中のファンを集め、ファンと選手、ファン同士のインタラクティブな交流を図る。それが、構想だ。
「最初は、スマホのアプリから始めるつもりです」
と、小松はいう。
仮想空間といえば、メタバースだ。小松は、こう語る。
「われわれは社内では、メタバースという言葉はあまり使っていません。目的はあくまでファン・コミュニティのコミュニケーション・エンゲージメントです。メタバースのためのメタバースをするつもりはない」
というのは、エンタテインメントの楽しみは、人と人とがつながり、体験を共有することだ。リアルのイベントに参加しなくても、バーチャルによってそれが可能になる。
人と人とがつながり、共有体験ができる。それを可能にするのは、ソニーのセンシング技術や映像技術だ。
さらに、試合以外のコンテンツを用意できれば、スポーツの楽しみ方を拡大できる。仮想空間上でファンやクラブ、選手との距離も短縮できる。
ふだん入れない場所を見学するとか、屋根の上から試合を観戦することも技術的には可能だ。ゴールキーパーの真横でプレーを体験することもできるという。
スポーツの新たな可能性への挑戦である。技術を持つソニーだからこそ、実現できる世界だ。ソニーは、スポーツエンタテインメントビジネスの創出を目指している。
仮想空間上のスタジアム構想は、まだ始まったばかりだ。
小松は、大きな石と石の間を埋め合わせるようにして両者をつなぎ、プロジェクトを成功に導こうとしている。(文中敬称略)(ジャーナリスト・片山修)
※AERA 2022年12月5日号より抜粋