また1975年には、沖縄に暮らしていたペ・ポンギさんが「慰安婦」被害者であったことを証言し、大きく報道された。沖縄が日本に“返還”されることをきっかけに、日本国籍を持たないペ・ポンギさんが沖縄に暮らしつづけるために、なぜ沖縄にいるのかを証言せざるをえなかったからだ。1987年には川田文子さんが、ペ・ポンギさんの人生を「赤瓦の家」という一冊の本に記した。多くの朝鮮人女性が、激しい戦火の沖縄に連行され性暴行を受け、名が記録されることもなく亡くなり、生き残った女性たちの多くも放置され、そのままアメリカが支配する沖縄で戦後を生きた。そういう女性たちが無数にいたことは、1970年代にすでに、この社会は知る機会があったのだ。
“私は「慰安婦」にさせられた、それは性暴力だった”
そう初めて声をあげたのは金学順さんではなかった。ただ、金学順さん以前の女性たちの声を受けとる力が、この社会には足りなかったのかもしれない。だからこそ1991年、「慰安婦」被害者本人が日本政府を訴えることで初めて、その声は広く聞かれるものになったのだ。
「え!? これ、訴えられるようなことだったの!?」
当時、日本社会の衝撃はそういうものだったのではないだろうか。戦時中の軍人による“よくある買春”に過ぎないとされてきた「慰安婦」。“男なら買うのが当たり前”とされてきた日本の男性文化。なぜ訴えられるのか!?という衝撃と反発は、当時の日本社会に大きくあったはずだ。
当時の日本の空気を大学生としてよく覚えている。バブル崩壊前夜とはいえ、世界で一番お金持ちの日本の未来は盤石であるような傲慢な勢いが社会の空気だった。エイズ予防財団がHIV対策として、スーツ姿でパスポートを持つ中年男性に「いってらっしゃい、エイズに気をつけて」と呼びかけるポスターをつくったのは1991年だ。夜の東京は、一歩裏通りに入れば韓国や東南アジアの女性たちがあふれていた。
男性が「買う」のはあたりまえ。なぜなら男性だから。