──そのコロナ対策や東京五輪への対応では、菅首相や森喜朗氏に象徴される「おじさん」たちによる旧態依然・前例踏襲型の政治や意思決定が、柔軟性の無さや閉塞感を生んできたように感じます。

 私はね、そうやって「おじさん」という仮想敵を作って、ひとまとめにして、「あいつらが悪い」ってやるのは、逃げじゃないかと思っています。

 私たちが闘っている相手は、おじさんではなく、歴史なんです。世の中は法律に基づいて動いていて、生活を縛るのは民法や刑法です。被害者の9割以上を女性が占める強姦罪(現在は強制性交等罪)は刑法、女性の9割以上が姓を変えなきゃいけない夫婦同姓は民法。どっちも100年以上前にできた法律です。若い男の人によって明治維新という改革があった時代。ただその頃は家父長制というのがあって、女性は一緒に食卓を囲めず台所で食べる。鯉のぼりだってお母さんの鯉はなかった。「女性は家にいなさい」という時代に即した法律なんです。

 でも今の日本政府は女性に「働いてください、社会活動してください」とお願いしている。夫婦別姓にしても、実は国勢調査で一番多い家族のあり方は一人世帯なんです。女性が社会で活躍し、結婚しない人や結婚しても1人になった人が大多数という今の日本に合った法律にするために、100年前の明治政府や、女性が社会の中心にいなかった時代の経済学や社会科学と闘わなきゃいけない。目の前の男性議員が相手ではありません。

──おじさんが抵抗勢力、という見方は間違いだと。

 そう。抵抗ではなくて、無関心が問題なんです。自分たちで法律を変えられるはずの議員でさえ無関心。これは女性の権利などについて十分教育されていないという面もありますが、やはり政策決定の場面に女性が少ないというのが大きな原因です。最低でも3割、本当に意味のある議論をするためには5割が女性にならないとダメ。無関心は知らないからなんです。

 たとえば今私はフェムテック(女性が抱える健康の課題をテクノロジーで解決できる製品やサービス)に力を入れているんだけど、男性たちは、タンポンやナプキンを使うことの不快さを知らない。男性だけだと、そこには永遠に理解が生まれない。男女があけすけに話し合って、お互いを知り合うことで、「そうなんだ」「それいいじゃん」っていうふうに新しいものを作り出せる。そして、男女という違いの先に、一人一人の違いがある。その違いを知っていくことが、マイノリティーや多様性への理解につながるんです。

(朝日新聞社・上栗崇)

※9月7日発売「AERA9月13日号」より抜粋。誌面ではさらに、女性議員をどう増やしたらいいかなど持論を語っています。続きは誌面で。