批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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筆者はスポーツが苦手だ。観戦もしない。だから五輪にもあまり興味はなかった。それがパラリンピックの中継は意外と観(み)ている。車椅子ラグビーの接戦に手に汗を握り、陸上や水泳の快挙に快哉を叫んでいる。
スポーツに興味のなかった自分が、なぜパラには惹(ひ)かれるのか。理由は多様性にあるように思う。視覚、身体、知的、先天性と後天性、「障害」といっても実態は多様で、パラスポーツもさまざまな種類がある。同じ競技でも障害の質や程度に応じてクラス分けがあり、身体の動きや機材の進化に驚くことも多い。人間にはこんな可能性があったのか、という素朴な感動がある。
その印象はいわゆる健常者のスポーツと大きく異なる。筆者の感性が鈍いせいかもしれないが、五輪を見て感じるのは多様性というよりむしろ完成度への驚きである。特定の目標に向けて身体を鍛え抜き、ミリ単位やコンマ秒単位の「正解」を追求する芸術としてのスポーツ。それもまた身体の可能性ではあるのだが、同時に「これは選ばれた人々のものだ」と感じてしまうことも確かだ。五輪のアスリートは別世界にいる。
けれどもパラは違う。むろんパラも芸術ではある。競技者はそれぞれの「正解」を追求し身体を鍛え抜いている。でもその正解はひとつではなく、障害の質や程度に応じて多様な形をとっている。活動期間が長い選手も多いし、ガイドなどの助けを借りる競技も多い。その懐の深さが勇気を与えてくれる。パラのアスリートは、天上の別世界ではなく、隣で戦っているような気がするのだ。
実際、ひとはだれでも障害者になりうる。事故や病気がなくとも、加齢により心と身体が衰え唯一の正解を追求できなくなるときは必ず来る。それでも他の正解があるのだと教えてくれるパラは、哲学的な営みでもあると感じた。
コロナ禍でのパラ開催には議論があった。いまも反対の声はあるし、巨大なショーにすぎないとの批判もある。けれども筆者は、多くの日本人がパラ開催を通して「多様な正解」に接することができたのは、結果的にかけがえのない財産になったように思う。
東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数
※AERA 2021年9月13日号