哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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台湾出身で上海に出向中の門人が一時帰国して挨拶(あいさつ)に見えた。中国はどんな具合か話を聴いた。「走っている自動車の半分は電気自動車」「レストランも買い物もすべてスマホ決済」という話にも驚かされたが、一番ショックだったのは、台湾出身である彼に向かって同僚の中国人たちが悪びれることなく「もうすぐ台湾侵攻だ」と放言するという話だった。
中国政府が「台湾への軍事侵攻を辞さず」と広言するのは今に始まったことではないが、メディアが「侵攻近し」という世論形成にまで踏み込んでいるとは知らなかった。
アメリカのメディアでも「台湾侵攻」をめぐる記事が増えている。台湾を守るために米軍が出動するべきか否かというシリアスな問題について、ある国際関係論の専門家は米中戦争を回避するための最善の選択肢は台湾を見捨てることだと主張している。
「台湾はアメリカにとって死活的に重要な利益ではない」。たしかに2300万人の活気に満ちた人口を擁する民主国家ではあるが、「日本や韓国と違って、アメリカの安全保障の枠組みに位置づけられることはあまりない」というのである(C.L.グレイザー、「『台湾と中国』というアメリカ問題」、Foreign Affairs Report, 2021, No.6)。
台湾防衛のために米軍を出すべきだと主張している人たちは「イデオロギー」や「人道的」配慮からそう言っているに過ぎず、クールな政策判断に基づくものではない。台湾を見捨てた場合に、日本と韓国という東アジアの盟邦が米国に対して不信感を抱くのではないかという懸念を持つ人がいるようだが、心配するには及ばない。台湾を見捨てても、東京とソウルは「アメリカへの信頼感を失うことはない」。むしろ日韓は米国が台湾を見捨てるのを見て、日韓両国が米国にとっては台湾よりも重要な軍事的拠点であるという事実を理解して安堵(あんど)するだろう、と。
このような過激な議論が米国内でどれほど受け入れられているのか私には分からない。だが、米中両国内で「台湾侵攻」が喫緊のトピックになっていることは事実である。総裁選の人気投票に紙面を割いているような余裕があるのだろうか。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2021年9月20日号
内田樹
「国民の分断は直接的暴力へ 『トランプ圧勝』で米国は漂流する」内田樹