――終戦直後、11歳のときに手塚治虫の『新寶島』を読んで「紙で映画みたいなことができるんだ!」と衝撃を受けた。同時に「漫画という分野は絶対に伸びる」と確信した。

 予想外の早さで、想像をはるかに超える成長ぶりでしたね。まさか目の黒いうちに、漫画業界がここまで大きくなるとは思いませんでした。

 私は“活動写真”が“映画”と呼ばれるようになったのと同じで、ストーリー漫画を“劇画”と呼ぶようにしました。

 映画で100人出てくるシーンを作るとしたら、どれだけたいへんなことか。でも劇画ならペン1本で、100人でも200人でも、どんなアングルからのシーンでも作れる。こんな素晴らしい表現方法はありません。

 ところが、劇画は、特に昔は「ひとりで描くもの」という固定観念が強かった。映画で言ったら、チャプリンみたいな天才ばかりを探しているようなものです。

 この世界でも手塚治虫先生みたいな天才は出ますが、分業にすればもっともっとたくさんの作品を世に送り出すことができる。それに、絵は描けるけど話が作れない、話は作れるけど絵はうまくない、そんな人がいつの間にか消えていくのをたくさん見てきました。それはもったいないし、天才しかやれないなんていうのは、職業とは言えません。

 私がほかの劇画家仲間と一番違っていたのは、劇画を「職業」として考えていたこと。その意識があったから、劇画で初めて「分業体制」を取り入れました。映画は監督がいて脚本家がいてプロデューサーがいて集団で作っていく。そんなふうに劇画の世界を変えたかったのです。

(聞き手/石原壮一郎)

さいとう・たかを/1936年、和歌山県生まれ。大阪府育ち。おもな作品に『無用ノ介』『サバイバル』『鬼平犯科帳』など

週刊朝日  2018年7月20日号から一部を再掲

[AERA最新号はこちら]